2025年2月12日水曜日

凌波仙子 腰間を遶る

 

 

 

もう梅が咲いているが

のんびりと梅園を見てまわる都合がつかないので

なんとなくヤキモキしている

見てきた人たちは

満開というにはまだまだだと言うので

ちょっとホッとするのだが

一本一本の木によって満開のさまは異なるので

そう悠長にもしていられない

 

梅といえば

格調の高い古典詩歌がたっぷりと心に蘇るが

一休のこんな漢詩も思い出される

 

夢に上苑美人の森に迷うて

枕上の梅花 花信の心

満口の清香 清浅の水

黄昏の月色 新吟を奈(いかん

 

夢ですばらしい美人の森に迷い込んだが

枕上の梅花のたよりを心が受けとったからだろう

清香が口いっぱいに満ちて清い浅瀬の水を含んだようだ

黄昏の月の色にも染まりどう歌ったらいいかわからん

 

字面の上では

こんな意味にとっておけばいいのか

どうか

 

問題なのはこの詩

題名が「婬水」とあって

直球勝負でエロなのである

口に満ちた「清香」も「清浅の水」も

じつは美女の「婬水」として読めと

題名が指定してきている

そう読むとなれば

「黄昏の月色」というのも

ハハァ…とわかってくる

もっとも美女の「婬水」は

透明のサラサラのはずなので

さては尿を漏らさせたか…

とまで読み手の思いは進む

 

この漢詩は『狂雲集』に収められているが

77歳から88歳までの10年ほどを

一休が盲目の森女(森侍者)と愛慾生活に耽ったところから

一見やぶれかぶれに破戒僧ぶって

しかし意図的に巧妙に創作された漢詩のひとつである

 

77歳の一休に対して20代だったらしい森女は

その境遇に一休が同情して妾にした盲目の旅芸人ともいうし

一休と同じ南朝系の血筋の女性で住吉神宮の巫女だったともいう

つねに諧謔と風刺と皮肉と悪戯で世間に対した一休だから

森女との関わりにも幾重もの企みがあったかもしれない

彼女との愛慾図を描き込む漢詩は

『狂雲集』の「住吉薬師堂並びに叙」のあたりに並ぶが

松岡正剛の読解を参考にすれば

ここには中国の三生石の伝説を下敷きにして住吉詣でにひっかけた

日本の説話創出の意思が読み取れるようで

そうなると森女との愛慾図は

仏道における真理との合体としてこそ見る必要も出てくる

森女との愛慾図そのものがメタファーとなるのだ

 

早春ともなれば

梅ばかりでなく水仙も目につくが

一休に書かせれば

「美人の陰 水仙花の香有り」という題の詩となる

「美人の股ぐら 水仙花の香あり」ぐらいに

訳しておくべきか

 

楚台まさに望むべし 更にまさに攀ずべし

半夜玉床 愁夢の間

花はほころぶ 梅樹の下

凌波仙子 腰間を遶る 

 

楚王の楼台が見えるようじゃないか 

それに登らにゃならんの

夜半に床でうつらうつら見た

愁いに満ちた夢のなかに見えた楼台にな

梅の木の下でおまえの股ぐらがほころんでいくわい

水仙の香りが腰のあいだに満ちて

あの水仙の仙女凌波仙子が

おまえの股ぐらを繞っているようだわい

 

『三国志』の曹操の五男である曹植の詩に出てくる

水仙の花の象徴の仙女の凌波仙子を出してくるあたり

漢詩や中国古典の教養を投入してくる

ただならぬエロ三昧の一休なのだが

「半夜玉床 愁夢の間」というところを見ると

どうも御本人が性愛三昧という印象は薄く

55歳以上も年下の森女の愛慾に対して

必死で奮い立たせようとしている悲愴さも

読み取れるように感じる

ここのところは楽天的に絶倫ぶりに解している人も多いが

どうも「愁夢」が気にかかってしまう

 

 

 



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