一瞬一瞬が生死に関わる武道の精神が
一瞬一瞬の悟りに賭ける求道の精神に通じていくのは
当然のことだろう
『葉隠』には
こうある
端的只今の一念より外はこれなく候。
一念一念と重ねて一生なり。
ここに覚えつき候らへば、外に忙しき事もなく、
ここの一念を守って暮すなり。
道元の教えには
こうある
道を得ることは根の利鈍にはよらず。
人人皆法を悟るべきなり。
精進と懈怠とによりて得道の遅速あり。
進怠の不同は志しの至ると至らざるとなり。
志しの至らざることは無常を思はざる故なり。
念念に死去す、畢竟して且くも留まらず。
暫く存せる間(あい)だ、時光を空くすごすことなかれ。
(『正法眼蔵随聞記』)
仏道を悟るかどうかは能力の有る無しにはよらない
だれもが法を悟れるはずである
精進と懈怠とによって悟りの遅速の差が生じる
志の有る無しが進怠の差となる
志が至らないのは無常ということをしっかりわきまえないからだ
一瞬ごとに思念するたびに死んでいっているのであり
このありようは留まることがない
しばらくこの世にあるあいだは無駄に時間を費やしてはならない
「念念に死去す」とは鋭く美しい言葉で
これはこのまま武道家の覚悟となりうるだろう
人間はつねに思念していたり
思いを意識内に流していたりするが
それらの思念ひとつひとつが生起するたびに
じつは刻々死んでいっている
刻々殺されていっている
この認識から
こんな言葉も説かれる
学道の人は後日をまちて行道せんと思ふことなかれ。
ただ今日今時をすごさずして日日時時を勤むべきなり。
これは
儒家の佐藤一斎の言う「惜陰」にも
そのまま通じていくだろう
人は少壮の時に方(あた)りては、惜陰を知らず。
知れりと雖も太(はなは)だしくは惜むに至らず。
四十を過ぎて已後(いご)、始めて惜陰を知る。
既に知るの時は、精力漸く耗す。
故に人の学を為すには、
しからずんば百悔ゆとも亦(また)竟(つい)に益なからむ。
(『言志録』)
元気で血気壮んな若い時は、
知っていても切実に実感はしないものだ。
四十歳を過ぎるとはじめて時間を惜しむべきだとわかってくる。
惜しむべきとわかるその時にはすでに心身の精力が衰えてきている
だからこそ、しかるべき時に志を立てて勉め励むべきだ。
そうしないと後でひどく後悔しても役に立たなくなるだろう。
厳しく残酷な言葉で
40歳を過ぎて心身の精力の衰えを感じてきた者は
うち捨てられてしまう感じがする
しかし
厳しさのなかにも
優しさや面倒見のよさもある儒者
佐藤一斎は
このようにも言っている
少くて学ばば、壮にして為すあり、
壮にして学ばば老いて衰えず。
老いて学ばば死して朽ちず。
若くして学べば、壮年にして為し得ることがあろう。
壮年にして学べば、老いても衰えないだろう。
老いて学べば、死んでも朽ちないだろう。
「死して朽ちず」というのは
むろん
その人の精神のなかに
朽ちないものが現われ出る
という意味であろう
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