六道輪廻の間には
ともなふ人もなかりけり
独りむまれて独り死す
生死の道こそかなしけれ
このように始まる
一遍上人の「百利口語」(ひゃくりくご)は
中世の和讃の最高傑作と呼ばれる
この世の人間存在のむなしさを
わかりやすく伝え
反省させ
自我の全面的な放棄を勧める和讃としては
非常に説得力に富む
現象界という環境の捉え方の研究を旨とし
その環境での思念の整え方やふさわしい言動を考究する仏教は
端的に言って
現象界のすべてが一時性のみを特徴とするということを
ラジカルに思想と行動の根拠に据えるものだが
こういう点については
日本的な抹香臭い仏教言説よりも
西欧の分析的な視点でまとめた言説をいったん通して見直したほう
かえって掴みやすくなるかもしれない
仏教というよりイスラム哲学に強い学者だが
アメリカのケンタッキー大学哲学科教授のオリヴァー・リーマンは
『東洋哲学キーワード事典』でこのようにまとめている
日本の天台宗によると、
われわれは
世界と心の一体化を、三つの真理の教義(三諦説)を用いて強調し
その三つの真理とは、空、一時性(仮諦)、そして中道(中諦)で
すべてのものはその内に永続的な恒常性をもっていない、
だからすべては空である。
もちろん一時的な実存と偶発的な性質はあり、
そしてこれは実は、
つまり、それは諸性質の一時的な(仮の)性質であり、
そうであるなら、それはそれらの絶対的空に向かう。
「中」、すなわち真の状態とは、
リアリティの最終的な記述として、
空でもなければ仮でもないことを認めることである。
「状態はない」、あるいは「真理はない」という結論でさえも、
真理を主張することになる。
これは総体的なテーゼに反するように見える
という非難を引き起こすかも知れない。
天台宗は、これは反対の論拠にならない、
何故なら、それは概念的な思索を超越した結論であり、
悟りに達することに依拠しているからであると論ずる。
この結論は日本仏教にたいへんに大きな影響を与え、
三諦の自己同一性を証明する様々な戦略が採用された。
オリヴァー・リーマン『東洋哲学キーワード事典』(萩野弘巳訳、
の「空(空虚)」の項(pp.97-101)
Oliver Leaman, Key Concepts in Eastern Philosophy 1999
こうした仏教的思弁にもとづいた
一遍の和讃の目的は
民衆に対し
一時的な実存と偶発的な性質はあるものの
永続的な恒常性を持たず
空である現象界の本質を直観的にわかりやすいかたちで説き
空と一時性(仮諦)と中道(中諦)を
くっきりと
記憶に刻ませることにある
千秋万歳おくれども
ただ雷(いなずま)のあひだなり
つながぬ月日過ぎ行けば
死の期きたるは程もなし
生老病死のくるしみは
人をきらはぬ事なれば
貴賤高下の隔てなく
貧富共にのがれなし
歌として
すらすら表現されているが
ここのところのリアルさなどにも
出色のものがある
日々おなじようなくり返しばかりの
「千秋万歳」と言いたくなるような
飽き飽きするような長い人生と思えるようでも
それは「ただ雷(いなずま)のあひだ」で
昨日から今日
今日から明日
と繋がる月日を過ぎていくうち
「死の期」はほどなく
すぐにやって来てしまう
そうして
生老病死の苦しみは
ひとを選ばないものだから
「貴賤高下」に関係なく
貧しい者も富裕な者も
逃れることはできない
一遍の超越的思想が
もっとも顕著に出ているのは
『消息法語』のこの一節かもしれない
この体に生死無常の理(ことわり)をおもひしりて
南無阿弥陀仏と
一度正直に帰命せし一念の後は
我も我にあらず。
故に
心も阿弥陀仏の御心
身の振舞も阿弥陀仏の御振舞
ことばもあみだ仏の御言なれば
生たる命も阿弥陀仏の御命なり。
「正直」は
「正しく」「直に」と読んでみたらよいだろう
そのように
「南無阿弥陀仏」を唱えれば
「我も我にあらず」
となり
「心も阿弥陀仏の御心
身の振舞も阿弥陀仏の御振舞
ことばもあみだ仏の御言なれば
生たる命も阿弥陀仏の御命なり」
と変身することになる
「南無阿弥陀仏」と唱えることで
「我」は「南無阿弥陀仏」となり
そうなれば
身の振舞いも言葉も
もちろん周囲のあらゆる環境も
「南無阿弥陀仏」となると
一遍は表白しているのである
浄土教の極北というべきであろう
参考に
『百利口語』全編を付しておく
百利口語(ひゃくりくご)
六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり
独りむまれて独り死す 生死の道こそかなしけれ
或は有頂の雲の上 或は無間の獄の下
善悪ふたつの業により いたらぬ栖(すみか)はなかりけり
然るに人天善所には 生をうることありがたし
常に三途の悪道を栖(すみか)としてのみ出でやらず
黒縄・衆合に骨をやき 刀山・剣樹に肝をさく
餓鬼となりては食にうゑ 畜生愚痴の報もうし
かかる苦悩を受けし身の しばらく三途をまぬかれて
たまたま人身得たる時 などか生死をいとはざる
人の形になりたれど 世間の希望たえずして
身心苦悩することは 地獄を出でたるかひぞなき
物をほしがる心根は 餓鬼の果報にたがはざる
迭(たがい)に害心おこすこと ただ畜生にことならず
此等の妄念おこしつつ 明け暮れぬといそぐ身の
五欲の絆につながれて 火宅を出でずは憂かるべし
千秋万歳おくれども ただ雷(いなずま)のあひだなり
つながぬ月日過ぎ行けば 死の期きたるは程もなし
生老病死のくるしみは 人をきらはぬ事なれば
貴賤高下の隔てなく 貧富共にのがれなし
露の命のあるほどぞ 瑶(たま)の台(うてな)もみがくべき
一度無常の風ふけば 花のすがたも散りはてぬ
父母と妻子を始とし 財宝所住にいたるまで
百千万億皆ながら 我身のためとおもいつつ
惜しみ育みかなしみし この身をだに打ちすてて
たましひ独りさらん時 たれか冥途へおくるべき
親類眷属あつまりて 屍を抱きてさけべども
業にひかれて迷ひゆく 生死の夢はよもさめじ
かかることはり聞きしより 身命財もをしからず
妄境既にふりすてて 独りある身となり果てぬ
曠劫多生の間には 父母にあらざる者もなし
万の衆生を伴なひて はやく浄土にいたるべし
無為の境にいらんため すつるぞ実(まこと)の報恩よ
口にとなふる念仏を 普(あまね)く衆生に施して
これこそ恒の栖(すみか)とて いづくに宿を定めねど
さすがに家の多ければ 雨にうたるる事もなし
この身をやどすその程は あるじも我も同じこと
終にうち捨てゆかんには 主がほしてなにかせん
もとより家宅と知りぬれば 焼けうすれども騒がれず
荒みたる処みゆれども つくらふ心さらになし
畳一畳しきぬれば 狭しとおもふ事もなし
念仏まうす起きふしは 妄念おこらぬ住居かな
道場すべて無用なり 行住坐臥にたもちたる
南無阿弥陀仏の名号は 過ぎたるこの身の本尊なり
利欲の心すすまねば 勧進聖もしたからず
五種の不浄を離れねば 説法せじとちかひてき
法主軌則をこのまねば 弟子の法師もほしからず
誰を旦那と頼まねば 人にへつらふ事もなし
暫くこの身のある程ぞ さすがに衣食(えじき)は離れねど
それも前世の果報ぞと いとなむ事も更になし
詞(ことば)をつくし乞ひあるき へつらひもとめ願はねど
僅かに命をつぐほどは さすがに人こそ供養すれ
それもあたらずなり果てば 飢死こそはせんずらめ
死して浄土に生まれなば 殊勝の事こそ有るべけれ
世間の出世もこのまねば 衣も常に定めなし
人の着するにまかせつつ わづらひなきを本とする
小袖・帷子・紙のきぬ ふりたる筵・蓑のきれ
寒さふせがん為なれば 有るに任せて身にまとふ
命をささふる食物は あたりつきたるそのままに
死するを歎く身ならねば 病のためともきらはれず
よわるを痛む身ならねば 力のためとも願はれず
色の為ともおもはねば 味わいたしむ事もなし
善悪ともに皆ながら 輪廻生死の業なれば
すべて三界・六道に 羨ましき事さらになし
阿弥陀仏に帰命して 南無阿弥陀仏と唱ふれば
摂取の光に照らされて 真の奉事(ほうじ)となるときは
観音・勢至の勝友あり 同朋もとめて何かせん
諸仏護念したまへば 一切横難おそれなし
かかることわりしる事も 偏に仏の恩徳と
思へば歓喜せられつつ いよいよ念仏まうさるる
一切衆生のためならで 世をめぐりての詮もなし
一年(ひととせ)熊野にもうでつつ 証誠殿にまうぜしに
あらたに夢想の告げ有りて それに任せて過ぐる身の
後生の為に依怙もなし 平等利益の為ぞかし
但し不浄をまろくして 終には土とすつる身を
信ぜん人も益あらじ 謗せん人も罪あらじ
口にとなふる名号は 不可思議功徳なる故に
見聞覚知の人もみな 生死の夢をさますべし
信謗共に利益せむ 他力不思議の名号は
無始本有の行体ぞ 始めて修するとおもふなよ
本来仏性一如にて 迷悟の差別なきものを
そぞろに妄念おこしつつ 迷ひとおもふぞ不思議なる
然るに弥陀の本誓は まよひの衆生に施して
鈍根無智の為なれば 智慧弁才もねがはれず
布施持戒をも願はれず 比丘の破戒もなげかれず
定散共に摂すれば 行住坐臥に障りなし
善悪ともに隔てねば 悪業人もすてられず
雑善すべて生ぜねば 善根ほしともはげまれず
身の振舞にいろはねば 人目をかざる事もなし
心はからひたのまねば さとるこころも絶え果てぬ
諸仏の光明およばざる 無量寿仏の名号は
迷悟の法にあらざれば 難思光仏とほめ給ふ
此法信楽する時に 仏も衆生も隔てなく
彼此の三業捨離せねば 無礙光仏と申すなり
すべて思量をとどめつつ 仰いで仏に身をまかせ
出で入る息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申すべし
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