2025年2月18日火曜日

個性や独自性を手放してしまったほうが

 

 

 

スマホだのタブレットだのPCだの

調べものをしたり

ニュースを見たりするのには便利だが

AI仕込みのものというのは

こちらの反応を記録し

分析し

カテゴリ化し

こちらがどんな人間かを決めつけて

こちらの喜びそうな

求めていそうな情報を

積極的に提示し続けてくるようになる

 

そこが

AIのシステムに見透かされているような

決めつけられているような感じで

ふつうの人間はちょっと嫌な気持ちになる

 

わたしとしては

これを

AIさんのおもいやり

と捉えてみることにしている

ご親切に

いつもありがとうね

と思っていれば

AIもなんだか人間的に思えてくる

 

ウイーンなどの名カフェなどは

馴染みの客が入ってくると

注文もしないうちから

客がいつも取るものを出してくると聞くし

吉野家の本店などは

毎日のように来る忙しい客に

注文も受けないのに

やはりいつもの出しものを出すらしい

かける汁の量など

細かいところまで把握していてそれを出す

 

いわゆる「人間的」とか「温かい」というサービスは

じつはAIを先取りしていたわけだし

逆に言えばそういうサービスを自動化しようとして

AIの設計者たちは努力したわけだろうから

昨今の利口すぎるAI さんたちの働きに

いちいち不安がったりする必要もないのだろう

そもそもAIと関わる部分は

買い物やものの調べなどに限られているわけで

そんなものはこちらとしても

もともとある程度型に嵌まった欲求しか持っていなかったのだし

そういう部分はカテゴリー化されてかまわない部分でもあった

最初からこちらもかなりの程度はロボットだったのである

 

ときどきはいつもの欲求とは違うものを求めたくなるのが人間だが

それだってかなりの部分はもともと型に嵌まった気まぐれに過ぎないだろう

だいたい自分の外部から物を買おうとする時点で

すでにこの自分にはたいした個性などないと反省しておくほうがい

 

ちょっと高所から自分を眺めてみれば

牧場に散って草を食んでいる子羊の一匹にしか見えないだろう

さらにはゲージに並べられて卵を生まさせられている鶏や

食肉処理場に運ばれて行く鶏や豚や牛ぐらいの

ほんのちょっとの個体差しか自分にはないはずだろう

 

個性個性個性…とか

独自性独自性独自性…とか称揚される時代を生きてきて思うのは

どちらにどう転んでも

どう深入りしても

どう暴れまくっても

人間の個性とか独自性などというものは

まず

たいしたものではない

ということだ

 

ほんのちょっと地球から出ただけで

特別な機材がなければバッハもモーツァルトも聞こえなくなるし

ピカソもダ・ヴィンチもクレーも百済観音も

もちろん見れない

 

地球から離れてしまえば

それらのおもしろさを語ろうにも相手がいない

大宇宙のほとんど誰も人類の作ったものを知らないし

興味も価値も共有はしてくれない

 

首を切られて鶏肉にされるような

個性も独自性もない存在であることを受けいれて

つかの間の時間

呼吸をしたり

温度変化を感じたり

体内での消化の様子を感じたり

肌が痒かったり乾燥したりするのを感じたりしておくだけのほうが

よほど宇宙存在的ではないか

と思えてならない

 

そんなの堪えられない

許せない

という人には

こう

聞きたい

 

あなた

いま居る場所に

数十年前や

数百年前にいたはずの人たちのことを

知ろうとしていますか?

彼らの個性や

独自性を

とても重要に考えて

感じとろうとかしていますか?

 

そうでないなら

あなたも

他人からは同じように遇されるべきでしょう

 

あなたの個性や

独自性を

あなた自身が手放してしまったほうが

とにかく

楽になりますよ

 

手放そうが

ほんとうの個性や

独自性は

そもそも失われるものではないのだし





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