2025年2月12日水曜日

なんにも読んでないんだな

 


 

 

産経新聞の記事だが

橫尾忠則が

現代のアートについて

「見る人の魂に刺さるエネルギーがない」

と指摘している

 

続けて

 

現代のアートは

「知性が優先している。

観念や言葉で解明できるものを最初からつくってる」

 

「現代のアートは知性に与える影響があるけれども、

人間の心に与える影響はあまりない」

 

「体験にもとづいた偶然性が入り込まないため、

エネルギーがあふれた作品は生まれにくい」

 

「今の社会は『完成した完全なものを求めすぎている』ため、

息苦しくなっている」

 

などなどの指摘も

記事に並ぶ

 

う~ん

思ってしまう

 

現代アートなるもののつまらなさを感じる

わたしとしては

これらの言葉に共感もするのだが

こんな言葉では

現代アートの惨状に追いつけないと感じる

 

しかし

同時に現代アートなるもののおもしろさも感じる

わたしとしては

「見る人の魂に刺さるエネルギーがない」

とは思わないんだけどな

と思って

しまいもする

 

じゃあ

橫尾忠則って

そんなにおもしろかった?

岡本太郎の惨状は

あれ

ひどくなかった?

などと

ブツブツ言葉が洩れてきそうになる

 

「見る人の魂に刺さるエネルギーがない」

のではなく

見る人に魂がなくなっているのでは?

とか

見る人が刺されるほどのエネルギーをなくしているのでは?

とか

思ったりもする

 

少なくとも

見る人の側がなんやかやと忙し過ぎて

ひとつの作品にバカみたいに長々と釘付けされていてくれない

ただそれだけのこととちゃう?

なんて

思う

 

そうして

田村隆一の詩の一節なんかを

思い出したりしてしまう

 

いま

躓くような言葉が見あたらない

言葉が傷ついたら詩人は介抱しなければならないのに

ぼくの目にするものは死語ばかり

死語の世界で生きていることは

ぼくはあの世の人かもしれない 

逆に

この世の人の意識と行動を眺めていると

浅草の奥山にある化けもの屋敷の木戸銭を払って入る必要もない

(「羽化登仙」)

 

ここには

晩年の田村隆一風味が出ていて

これはこれで

おいしいのだけれど

けれども

彼がこれを書いた頃の言葉界には

けっこう「躓くような言葉」がどんどん出現していて

ああ

田村隆一って

なんにも読んでないんだな

がっかりしてしまったものだった

ドゥルーズやフーコーやデリダなど

当時のポストモダンの哲学言説の数々も

読み込まれないまま堆積し続ける

17世紀から20世紀までの世界中の書籍の中の

いちいち「躓く」ほかない無限な言葉も

ぜんぜん読んでないんだな

がっかりしてしまった

それどころか

中世スコラ哲学の文献も

仏教経典なども

どんどん新訳が出され初めていた頃で

「躓くような言葉が見あたらない」なんて

なぁに言ってんだか

呆れかえってしまった

 

永井荷風が戦後になって

フランス文学にもう読むべきものはない

と言ったことに対し

なにを言うか!

カミュもサルトルも読まないのか!

と石川淳が憤慨したけれども

それと同じようなことに

田村隆一さん

なっちゃってるな

と思ったものだった

 

ボルヘスなど

視力を失ってから

86歳で死ぬまでに

晩年には

古代英語と古代アイスランド文学の研究に没頭し

「躓く」言葉にぶつかり続けだったというのに

ニッポンの詩人って

「躓くような言葉が見あたらない」なんて

言っちゃって

まったく

なぁに言ってんだか

だった

 

 

 

https://www.sankei.com/article/20250211-HXAEFTPLOFLDPJYUM4EINMA4YM/

 





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