あなたたちにとって牢獄であるものが
私にとっては庭園
ジャラール・ウッディーン・ルーミー
お笑い芸人の伊達みきお(サンドイッチマン)が
こんなことを言っていたらしい
この間WBCでさ
成田空港に優勝した選手たちが帰国して。
みんなスマホ掲げて
スマホの画面見てんだよ
肉眼で見ろよ
まず
スマホの画面越しで見るなら
テレビでいいじゃない
おっしゃるとおり
と思う
しかも
世の中のあらゆる場面で
これ
観光名所でも
これ
満開の桜を前にしても
けっこう複雑な色の彩で織りなされる
紅葉を前にしても
これ
ふつうのヒトは
もはや
手持ちのスマホのモニター越しでしか
ものを見ない
しかし
スマホ普及とともに
この行動様式は広まったのか
といえば
もっと前から
いわゆるガラケーならぬ
携帯電話全盛の頃
お花見でも観光地でも
たくさんのヒトが
携帯電話を掲げるばかりという光景を
どこでも見た
さらに
それ以前では
一眼レフから小型カメラに至るまで
とにかくカメラを物に向ける
たくさんのヒトビトの光景に
日本ばかりか
世界中が覆われていた
つまり
問題の根源はスマホにあるのではなく
すぐに消え去っていく現在意識と
肉眼の欠点とを補完しようとするヒトの意志にあり
その時代に入手しやすい人工機具を
対象とのあいだに介在させようとするヒトの習性にある
と見たほうがいい
永遠
までは望めなくても
疑似永遠を
死すべき存在であるヒトはいつも希う
写真だのデータだの情報だのは
たえず消え去りゆく現在意識たるワレより
永遠っぽいのだ
そういう永遠っぽいものに
ヒト科は
わびしく引き寄せされ続ける
ペンどころか
かつては筆で記した
さまざまな記録や
随筆や和歌
俳句のたぐいも
あれらの時代にあってはスマホであっただろう
と思う
文字を記したり
なにか書こうとして
しばし
沈思黙考する時
ヒトは現実の対象から離れる
対象とのあいだに思念というモニターを設置し
さらには
文字や言語という抽象回路を介在させて
対象に対し
ひたすら間接的な対応をしようとする
永遠っぽいものを希うのをやめ
永遠という幻を捨てる時のみ
対象との遭遇は起こり
対象との合一も起こり得る
ヒト科が希う永遠なるものとは
片時も対象を喪失しない精神状態を意味するので
虚像としての“永遠なるもの”を捨てた時こそ
永遠の流入が
また
永遠への意識の流入が起こり得る
さらに付加すれば
永遠とは合一であり
他者との遭遇であり
そうした合一と遭遇において発生する自己喪失である
近代詩でなく
古代から中世の神秘主義宗教詩の霊域の仲間たちから
現代へと派遣されてきたわたくし
駿河昌樹は
20世紀21世紀の穢れた自由詩形式を弄びながら
この時代の文芸や文化なるものに全く属すことなしに
2023年においてこのように記しておく
プロティノスにも
古代ギリシア神秘主義詩人たち各位にも
イスラム神秘詩人のジャラール・ウッディーン・ルーミーにも
挨拶を送る
老荘の懐かしい老師がたにも
仏教界の覚者たちにも
とりあえず
ただひとつだけ
備忘のために記し直しておく
ルーミーの詩句
私の目は眠っているが
私の心は目覚めている
と知れ
一見活動していない私の状態は
実際には
活動しているのだ
と知れ
預言者の言葉のごとく
「私の目は眠っている。
しかし
私の心は
創造主に対して眠ってはいない」
あなたたちは
目は目覚めていながら
心は
まどろみに沈んでいる
私は
目は眠っていながら
心は
神の恵みある開かれた戸口に
観想の中で立っている
私の心は
肉体とは別の五感を持っている
外界と精神界
いずれの世界も
心の五感にとっては劇場
あなたたちの無力さの観点から
私を見てはならない
あなたたちにとって夜であるものが
私にとっては
朝真っ盛りなのだから
あなたたちにとって牢獄であるものが
私にとっては庭園
この世界でまったく完全に占領された状態であっても
私にとっては
精神における自由の状態
あなたたちの足が泥の中にあっても
その泥は
私にとっては薔薇
あなたたちは悲嘆にくれていても
私は祝宴の中で
太鼓の響きを聞いている
地上の同じ場所で
私はあなたたちと一緒に暮らしているが
天国の第七の階層を
通り過ぎているところ
だから
あなたたちの傍らに座しているのは
私ではない
それは私の影
私の列する場所は
思念の届く範囲よりも
高いところ
あらゆる思念を通り越えて
思念の領域の外を
すばやく行き来する旅人の私
そう
私は思念の支配者
思念によって支配されない
大工は
建物の支配者であるゆえ
体験したことのない者から見れば
まったくの偽りと見えよう
しかし
精神の領域に住んでいる者から見れば
これこそが現実
ジャラール・ウッディーン・ルーミー「マスナウィー」
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