かなしさはひとかたならず今ぞしるとにもかくにもさだめなき世を
藤原定家 「拾遺愚草」下
「大川隆法」氏が亡くなったそうだが
彼が運営していた団体に属しているのでもないかぎり
ふつうの人びとは
妙な新興宗教の教祖が没したとか
現代のブッダだと自称していたわりに66歳で死ぬなんて…?
などと思って
ほかの多くの時事ネタとともに忘却していくばかりだろう
私も
このひとやこのひとの集団とは
なんの関わりもない
けれども
このひとが「大川隆法」となる前
まだ「中川隆」だった頃
父親の善川三朗氏(本名・中川忠義)
無類の神秘主義・オカルト好きの私はそれらを全巻読んでいた
[中川→大川や中川→善川という
わかりやすい変更がなされたのがわかる
むしろ中川のままでよかっただろう
中庸を尊ぶという意味で]
この霊言シリーズはトンデモ本ではなく
霊言のかたちを取った社会倫理や人生論の本というべきで
人生をどう生きるか
社会をどのようによい方向に向けていくか
などの古来の根本問題への指針を与え続けるものだった
すでに死んでいる偉人や神々が出てきて霊言を語るという体裁は
あやしさ満載のトンデモ本の体裁ながら
内容的には道徳的で倫理的な良書と見なすべきものだった
「霊言」を受けとめる形式としては
霊媒役の息子の「中川隆」に霊が下りて
その霊に父の「善川三朗」が質問したり話を聞くというものだった
1986年や87年に
「中川隆」は「大川隆法」となり
幸福の科学を立ち上げて宗教活動をしていくことになる
私の愛読していた霊言シリーズは次第に出版されなくなっていき
霊言シリーズをさらに大がかりに引き継いでいくことが
「大川隆法」の宗教活動となっていったように見える
彼が「大川隆法」となってからの活動には
組織嫌いの私はまったく興味を持たなかったし
宗教組織の問題性は
当時世界的に隆盛を極めていたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギの
超越瞑想システムの世界的運営や
ピラミッド型のレベル階層認定のありかたをさんざん見せられて
宗教的な新たな支配システムが作られていくのを危惧していたので
よけいに「大川隆法」のその後を避けるようになった
宗教的組織という点では
やはり大きな組織になっていっていた
ラージニーシ(その後OSHOとなる)の場合も
人間の自由を奪う社会制度と正面衝突してアメリカで告発され
インドに帰って行った
後に「オウム真理教」を動かす麻原彰晃が
ヨガ修行会の「オウムの会」を「オウム神仙の会」にするのも19
麻原彰晃がはじめ修行した阿含宗の桐山靖雄の教義は
私も中学生時代から耽読していたので
1986年前後において
私は麻原彰晃にきわめて近い生き方をしてきてもいた
しかも私は1983年時点から
伴侶とふたりだけでのヨガと心霊修行生活を開始していたので
集団や組織という点で完全に異なるとはいえ
霊的修行に打ち込んでいたのは
麻原彰晃や大川隆法と同様であった
ちなみにその頃私は幽体離脱を経験し
いわゆる現世やこの世の実体性を経験的に否定することになった
一般的に受けとめられるようなものとしては
この現世はまったく存在していないという強い認識に立って
その時以来私は借り受けた身体を地球に滞在させ続けてきている
1980年代がどれほど宗教的活動の盛んな時代であったか
どれほどたくさんの宗教集団の種が発生し
個人のかたちであったり集団を成したりであったりを問わず
どれほどたくさんの心霊修行者たちがいた時代か
今となってはなかなか理解できないだろう
井の頭線の通る「池の上」に住んでいた私は
買い物では下北沢に出たり渋谷や新宿に出たりするのが日常だった
どこでも宗教関係や修行関係の勧誘を受けた
駅にはいつも禅僧が立っていて
時どき彼らを家に招いて禅を教えてもらったり
ハレ・クリシュナの人びとも歌いながらよく街を歩いて行き
ちょっと話すと『バガバッド・ギータ』の紹介冊子をくれたりする
『バガバッド・ギータ』
ハレ・クリシュナの人びとからだった
「エホバの証人」があちこちで勧誘してくるのは当然としても
仏教の浄土真宗系の若者も勧誘してくる
広島長崎の原爆被害者のために千羽鶴を折ってくれという集団も
大きな駅の前ではたいてい出ていて
折り紙を渡して鶴を折らせようとする
カンボジアなどの紛争地域への寄付を募る人びとも多かった
おそらく全共闘などの若者の革命志向が崩壊した後を埋めるためだ
人びとは自然に「変革」のありかたを
社会的なものから
内的なものや精神的なものや霊的なものへと
激しく移動させていった時代だった
学校組織や会社組織どころか
知人や友人のある程度以上の規模の集まりさえ受け入れられない私
ひとり孤高の覚者として
あらゆる組織を否定して講話活動を続けるクリシュナムルティしか
内的な柱とできる存在はなかった
とはいえ
他の覚者の誰よりも優しいパラマハンサ・
ヒンドゥーのよいところを受け継いだ彼の教えも
再三再読して肉化しようと努めた
誰よりも巧みなおもしろい講話をするラージニーシの
宗教というより文学的な教えも
本を何冊も買って耽読した
クリシュナムルティのように厳しい教えとしては
もちろんルドルフ・シュタイナーがいた
私は古本屋で偶然見つけたシュタイナーの『神智学』
電撃に打たれたほどの感銘を覚えた
1981年にイザラ書房から発行された高橋巌訳で
「超感覚的世界の認識と人間の本質への導き」と副題されていた
その後はシュタイナーのほぼ全著作を読んだが
スウェーデンボルグ系のオカルト記述に入っていくので
なかなか納得しがたいところももちろんあった
オカルトといえば
なんといっても王者のグルジェフがいるが
スーフィズムの系統の思考を練り上げたこのひとの魔術的な教えは
神秘主義やオカルト系では最高度に難解で
たえず手元に置いて立ち返るようにしている
英語版やフランス語版でグルジェフ関連著作を買い集めるのは
パリなどに行った際の恒例行事のようになった
当時はまだ彼らの著作の日本語訳が少なかったので
英語版を買い集めるために
フランス人だった伴侶とともに神秘主義やオカルト系の書店を探し
土日など半日費やすことが多かった
西荻窪の「ほびっと村」
古本のような体裁のものをずいぶん買いに行った
そこの店内にあるイワシ料理屋で食べて帰ってくるのも
たびたびのことだった
いろいろな小さな部屋を借りて
神秘主義の紹介をする人たちがレクチャーやセミナーもしていて
それらにもよく出かけたが
後にクリシュナムルティを翻訳する人たちによる集会も
毎回少数の人間を集めながらに過ぎなかったが
多く行なわれていた
心霊修行者は孤絶した内的生活をしていても
(
話す場合はアートや文芸などの素材を「比喩」
そのため芸術好きや文芸好きに勘違いされることがあるが
そのように勘違いされたほうが便利なのでそのままにしておく
心霊修行者にとっては詩歌や小説や絵画やデッサンなども
単に「比喩」であるに過ぎないが
他人からはそうとは見えず
文芸家や文芸趣味人やアート好きとしか見えなかったりする)
できれば同好の人たちとゆるい集いを持ちたいとはやはり思う
私の場合は日本ではそういう同好の士は見つけづらい感じがしたが
世界に目を転じて見れば
白衣を着ることの多いシーク教徒やイスラム神秘主義者の姿には
生まれつきの故知れぬ親近感を感じていて
教義的にはシーク教徒のそれを特に内的に備えているようだった
シュリ・
親近感を持っていた
前世や前前世にそれらの宗派の中で修行してきた記憶があるのだろ
肌合いもまったく合わなければ
考え方も行動様式もまったく理解できない日本に
今回試しに来てみたのも
べつの心霊修行の一階梯だと感じ続けてきた
私にとっては日本のすべては「外部」
長く住んでみても
風土にも住民にもまったく同化はできない
ここは故郷ではあり得ず
いわば故郷とすることの不可能性の具体例が日本となっている
「大川隆法」氏が東大法学部でハンナ・アーレントを研究し
非常に評価されていた学者肌のひとだった
ということを
私は興味深く思っている
あの時代にはまだ
日本ではアーレントの紹介も理解も十分ではなかったので
ずいぶんと先見の明があったと思える
彼の宗教活動は多分に収益追求の営利事業だと思われるが
いくつかのポイントを視野におさめて
このひとを見直そうとしてみると
おそらく
心霊修行や宗教修行をまともに考えようとしない
世間のふつうの人びとよりも
私にとっては
はるかに語りあえる部分の多いはずのひとだった
と思われてくる
輪廻転生のくりかえしの後に神と合一するのを目的とし
真の宗教は
儀式や形式など表面的なものへの執着を超えたところにあるとして
儀式を否定し
偶像崇拝を否定し
苦行を否定し
ハタ・ヨガを否定し
カーストを否定し
出家を否定し
迷信に従うことを否定する
霊的にもっとも合理的で
地上の形式に囚われることの少ない
シーク教の最重要メッセージを以て
ここに
「大川隆法」氏を追悼する
Ik Onkar
ੴ or ਇੱਕ ਓਅੰਕਾਰ
"There is only one God or One creator or one Om-maker"
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