ある朝
起きてから
Aを何時頃に
Bを何時頃に…
などと
その日にやることを考えているうち
一日という時間を
空間として扱っていることに
気づいた
そうして
朝食をとりながら
粗い時間論に
また
入っていった
時間が空間として扱えるのは
一日の時間のように
限られた時間パッケージの場合だ
始まりから終わりまでがだいたい見通せていて
夕方のプランを考えることから
また
午後はやいうちのプランを考えることへと
戻って来れる
空間というものの特性は
その領域内で行きつ戻りつしたり
一箇所に留まったりという
比較的自由な移動が可能であることにある
ところが時間の場合は
この自由な移動ができない
時間とは
行動の自由度から評価する場合
こういうものとして
定義できる
とはいえ
肉体を伴った行動とはべつに
意識内でヴァーチャルに扱う場合には
空間も時間も
その領域内で行きつ戻りつしたり
一箇所に留まったりという
自由な移動が可能となる
未来に属する時間領域の場合
もちろん具体的な事象を把握はできず
想像力による補完が必要になるが
空間の場合であっても
まだ見たり触れたりしていない箇所については
同様のことが起こるので
時間と空間をまったく異なった構造のものと受けとめてしまうのは
誤っている
論点が
ちょっと飛躍してしまうが
自由とはなにか?
という場合
時間を空間的に移動できる可能性が多めの感覚
であると
わたしは定義している
自由というものについての
多くの哲学的・政治学的な議論は
感覚
というものを見過ごし過ぎてしまっている
自由とは何処までも感覚に過ぎず
もしその人の感覚が
自由
を感じるならば
人は狭い牢獄の中に閉じ込められていても
巨大災害後の段ボール敷きの粗末なベッドに投げ置かれて
衰弱死を待つだけの状態の時でも
無限に
自由
であり得る
こうした
自由
の驚異的な点は
不自由な場合であっても
どこまでも
自由
であり得る点だ
その時その場で与えられる物質的条件をひとつ上に超え出る
意識の動きさえあれば
あらゆる物質的条件は乗り越えられて
自由
が感覚される
物質的条件と感覚との構造的ズレが
自由
だからだ
さて
いまや
このように
わたしは詩形式を
ルクレティウスのように用いる
他のテーマについては
ホラティウスのようにも
クラウディアヌスのようにも
オウィディウスのようにも
ウェルギリウスのようにも
用いることにしよう
もちろん
叙事詩の祖シリウス・イタリクスや
近代叙情詩の祖マクシミアヌスのように
あいもかわらず
用いてみる時もあろう
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