世の中には
詩というものを書きたい人がいるし
書いた詩で
名を残したいという人もいて
まあ
人というのはいろいろだから
そういう人がいるのも
わからないではないのだが
やっぱり
ふしぎな人たちだな
と
ぼくなど
思ってしまう
おまえだって
書いているじゃないか
と言われるかもしれないが
ぼくが書いているのは
自由詩形式ふうに並べていく単語なわけで
詩だなどとは
思ってはいない
詩を書きたいと思ってもおらず
詩が書けると思ってもいないぼくが
自由詩形式で単語を並べていったって
ほんとうになににもならないのだが
それでも
単語を並べていっている瞬間だけ
ぼくという意識の動きの
秘密というか
構造というか
機序というか
アルゴリズムというか
そういったものが
ほんのちょっとでもわかるような気がする
たぶん
そういった「わかるような気がする」体験を重ねたくて
詩人でもないのに
自由詩形式を使って
飽きもせず
けっこう
たくさんの単語並べをしてみたりしているんだろう
自由詩形式のこういった使用は
拵えていくものが
ほとんど誰にも読まれないことによってこそ
可能となる
さいわい
ぼくの単語並べは誰にも読まれていないし
かつては
ちょっとは居た
読んでもらいたい友人たちも
もう音信不通になったり
死んでしまったりしていて
誰かに宛てて単語を並べていくという
よくない偏向も行なわないで済むようになっている
誰にも向けていない
気に入られようともしていない
単語並べが気兼ねなくできているというのは
考えようによっては
すごくしあわせで
珍しいことでもあって
たくさんの数えきれない転生の中でも
ほんとうに貴重なヴァカンスのように感じている
じぶんが生まれてきた時代や場所で
価値があるとか
すばらしいとか
美しいとか
意味があるとか
意義深いとか
共通見解として思われているようなものを完全に逸れて
パーマネント・ヴェイケイションしているのが
単語並べをしている時の
ぼくだ
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