だれであれ
ほかの人たちはわたしより
しあわせであろうし
満ち足りて暮らしているだろう
いつからか
そう思って過ごすように
なった
いったん孵化した爬虫類とちがって
人間の場合は
いかに自立だの
独立だの
孤独だのを保とうとしても
しょせんは白アリの巣のような集落住まいから
出られない
そういう集落住まいにあっては
どうかすると
すぐにほかの白アリとじぶんとの比較に陥る
あいつのほうが
いいエサにありついたのではないか
とか
こっちのほうが
巣穴の点では心地よいのではないか
とか
けれども
ながいあいだに
多くの
あまりにも恵まれた人びとを見たり
あまりにも富裕な人びとに会ってみた結果
だれもがわたしよりも
しあわせであり
満ち足りており
いっときも時間を無駄にせずに
そのひとならではの人生を謳歌している
と思っておいたほうが
心理の経済上
利益が多いと気づいた
このところ
こっちのほうがいいエサにありついている
などと思うようになると
こころはもう
比較と差別と優位感情の追求を柱とするようになり
次には優位感情の維持に
おのずと努めるようになる
そうして
エサのほんのちょっとの質量の差などを
たいそう大きな
重大事として見るたましいに
成り下がっていく
大学を卒業する時点で
卒業記念に親からベンツを贈ってもらうような友もいたし
歳上の裕福な愛人からマンションを買ってもらう女性たちもいたし
30歳にもならないうちに
親からマンションを何棟か譲り受けて
一生働かないで管理だけして生きていく知りあいもいた
南洋のリゾート地では
年に半年は休暇のある金融関係の人びとと話し
この次はどこの島に行くから
きみも来ないかと誘われたりしたし
そもそも
わたしの母方の曾祖父は
大きな和菓子屋の若旦那だったことから
仕事はぜんぶ番頭に任せて
長唄や俳諧や色街遊びの好事家として
一生を送った人でもあった
エサのほんのちょっとの質量の差など
気にしていると
もっと大きな差のむこう側にのんびりと憩っている人たちが
目に入らなくなってしまう
「オーストリアでは人間は男爵から始まる」
というメッテルニヒの言葉は
現代でも
あまり軽視しないでいたほうがいい
反抗というものが
人間の姿をとって降臨してきたような詩人
リバティーンとよばれた
第2代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモットは
「王の顔が刻印された下品な硬貨など
使用人しか使わないものだ」
と言い
「おれはあらゆる王政を憎む。
横暴なフランスから
間抜けなイギリスまで」
と言ったが
そういう彼にしたところで
先ずは「伯爵」であった
「伯爵」でなければ
そんな減らず口さえ
叩けないのだ
現代も
あいもかわらず
王制と貴族制の時代が続いているが
まさか
そういう事実が
見えないのではないか
現実を忘れてしまっているのではないか
そう推測されるような人びとが
いる
たしかに
平民の中に生まれ
税金など取り立てられるのを当然と信じ込まされて
朝から日暮れまで労働に従事するのが
あたかも当然のことのように
思い込まされていたりするのならば
致し方ないかもしれない
生まれ育ちや
日々の生き方自体が
もっとも堅牢な目隠しになってしまうことは
今に始まったことではない
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