2018年6月3日日曜日

D-Day


 
いっそうの韜晦と
諧謔と
距離と
冷たさを

そして同時に
いっそうの侮蔑と
慈悲を

同士諸君よ



サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。


 
国民とやらを
市民とやらを
庶民とやらを
これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

自分で採った種子を蒔けない法律もできたことだし
水道は民営化されて8倍も10倍も料金が引き上げられるようだし
労働時間の規定は完全に取り除かれて酷使したい放題になるのだし
老人や身障者や他の社会的弱者の切り捨て政策は進展目覚ましいし
原発事故の県ではガンの発生がウナギ登りでも誤魔化されているし
各地の原子炉の維持や廃炉には天文学的な支出が続いていくのだし
腹汚い既得権益連中が凝集して富を吸う戦前帝國化が進んでいるし

わからないのも
見て見ぬふりも
何もしないのも

国民とやらの
市民とやらの
庶民とやらの
やっぱり自業自得なので

これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

…と書く
あたしはだれ?
と問いが来るかもしれないから
言っておくけど

サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。




またギロチンを研ぎはじめる次第

 

たいていのことは
おおげさに考えすぎないようにしよう
人間ごときが
感じたり思ったり企てたりすることなど
どこまで行っても
しょせんは
宇宙の藻屑にすぎないのだから

でも
そんなふうにおおらかに
寛大に
覚者ぶって
悠々としているうちに
ずるい連中や
底なしのバカどもがのさばり出す

しかたなしに
また
ギロチンを研ぎはじめる次第



ほんとうの窓が

 
だれにも媚びないことばを
まだ
記せる?

どれだけ?

そう思って
ここにも
ことばを記してみる

認められたがりのことば
買ってもらいたがりのことば
覚えてもらいたがりのことば
こころに留めてもらいたがりのことば

そんな商売ことばたちだけに
なってしまった地上で
まだ
あり得るのか
けっして奴隷になることのない
ことばは

たゞの逡巡としか見えないことばや
急ぎのメモ書きのことばこそが
まだ知らぬ
どこかのひろびろとした草原への
窓のように見える

だれをも動かそうとしないことば
だれをも誘導しようとなどしないことば

そんなことばたちがほしい

たゞ
窓がほしいために

ほんとうの窓が



2018年6月2日土曜日

ゆうがたはなにもしないで



ゆうがたはなにもしないで
町のようすを眺める

ちかくを見下ろし
とおくを望む
座ったり
立ったり
また座ったりする

コーヒーも
お茶も飲むが
飲むのは水がいちばんいい
コップに注いで
ゆっくり飲む

そうして
また
立ったり
座ったり
町のようすを眺める

気持ちのよい
娯楽のための本を
ちょっと読んでみたりもする
ヘーゲルやカントがいちばんいい
スピノザも気持ちがいい

小説ならなにがいいだろう
ちょっと迷う
生活思念や感情を
あまりにくだくだ書いてあるものは
すぐに嫌になってしまう
ヘミングウェイのいくつかはいい
「嘔吐」にもよい箇所がある
鴎外はかなりよい
ソレルスやバルザックにも
よい箇所がある
物語が停滞するあたりで
記述は急に夕方の読書むきになる

いずれにしろ
ぼんやりと目を落とす
くつろぎの読書
意味とイメージの無数の糸は
現われては縺れ
すぐに姿を消しては
また現われ
間違いも多い印象を心に残しながら
新たな空間を
意識の未来へとひそかに準備していく

座ったり
立ったり
また座ったりする

ちかくを見下ろし
とおくを望む

ゆうがたはなにもしないで
町のようすを眺める



2018年6月1日金曜日

あのあたり

メニルモンタン! そうですとも、マダム
わたしがこころを置いてきたのはあそこ
わたしがたましいを
わたしのほのおを
わたしのしあわせをとり戻しにいくのはあそこ
シャルル・トレネ 「メニルモンタン」 1938*

Ménilmontant mais oui madame
C’est là que j’ai laissé mon coeur
C’est là que je viens retrouver mon âme
Toute ma famme
Tout mon bonheur...
Charles Trenet : Ménilmontant, 1938



電車で通過したそこは
もう三十年ほどのむかし
にぎやかで温かく楽しくもある事情が
奇妙にこちゃこちゃに絡まって親しむようになったところ
たびたび訪れた通りや
広場や
家々のあったあたり

電車からちょっと見えた狭い道をすこし行けば
小さな公園があって
それを囲んでボロ家やいくつかの普通の小さめの家や
入口のドアも取れてしまっているアパートや
猫がよく蹲っているいくつかの花壇が四季の花を咲かせていて
子どもが忘れたボールやバドミントンの羽根が落ちていたりする

夏の暑い夜など
夕食の食器の鳴る音や
テレビのなにかでワッと笑う声や
子どもの兄弟げんかの声や
急に叫ぶ猫や
なにか盛大にひっくり返した音や
たぶん明日の音楽のテストのための笛の練習の音や
そんな音の渦巻きがいつも
わんわん
うんうんしていて
それが深夜少し前になると
不思議にちゃんと静かになっていったところ

愛する
なんていう言葉は恥ずかしくって
嘘くさくって
めったには使えないと思うほど
ぼくらは真摯だった

今になってふり返れば
本当に愛していたと言ってしまってもいい
いろいろなものが
豊かに溢れかえっていた

なにも所有していないと思い込んでいて
それでいて心も軽く
にぎやかで温かく楽しくもある事情が
奇妙にこちゃこちゃに絡まって親しむようになったところ

たびたび訪れた通りや
広場や
家々のあったあたり

あのあたり





おなじみの物語

 
Ici ou là  tout est pareil.
Pierre Reverdy


なにかを語りはじめると
たいていのひとは語るのではなく
語らされていってしまう
記憶のなかの紋切り型の物語のいろいろな形態に乗せられて
物語たちにいつのまにか憑依されて
され切って

いろいろな自由をひとは求め
いろいろな自由を叫び
いろいろな自由を手にしたつもりにもなるが
いつもいつも無頓着
じぶんのなかに巣食う物語たちから自由になることには

何百年経っても
何千年経っても
解放の物語や
復活の物語
報復の物語
勧善懲悪の物語
失われた何々を取り戻す物語
未知なるものへの物語
じぶん探しの物語
真なるものへ向かう物語
不条理の物語
意味と無意味のはざまを迷う物語などに
喜々として
深く深く
真っ逆さまに
それが価値あることとでもいうように
陥っていくまゝ

いつもかわらぬ
おなじみの物語形態への転落の物語
これもまた
おなじみの物語
いつもいつもの物語