2021年9月30日木曜日

くらくら

   

たゞ 空間があって

どうしても

時間は

流れるわけで

 

ひかりや

陰の

ゆっくりした

ダンスが

床にも

壁にも

続くわけで

 

あゝ

それに

聞こえるよね

なにかしら

いつも

かならず

 

豊饒すぎて

ぼくは

くらくら

 

ずっと

くらくら

 

いつも

くらくら

 

これからも

たぶん

くらくら




ことばも文字も

   

ちょん

ちょん

 

書きつける

のなら

まだ

いい

 

書き込む

のは

ダメ

だと思う

 

書きなぐる

のも

精魂込める

のも

どうか

 

ぽん

ぽん

文字を

置く

ぐらいが

ほんとうは

いちばん

いい

 

言い過ぎなのだ

 

書き過ぎなのだ

 

使い過ぎだよ

 と

思う

 

ことばも

文字も






鯛の切り身

 

 

きょうの晩めしには

鯛の切り身を買ってあるので

ちょっと

うれしい

 

サバやブリでなくって

ちょっと

うれしい

 

サバやブリもいいけれど

ちょっと

うれしい

 

すこしプックリした

切り身なので

ちょっと

うれしい





萩の花

 


分け入っても分け入っても青い山 

種田山頭火

 



 

萩の花、好き

あれほど好きなもの、ない

 

萩いっぱいの庭

あちこち

なんどもめぐったこと

あって

 

しあわせだった

あの日 

この日

 

萩の花、好き

 

かるく

手で

触れながら

分け入っていく

 

分け入っても

分け入っても

萩の花

 

山頭火さんなら

青い山

 

わたしの場合は

萩の花




彼岸花

 

彼岸花には

ハッと目を惹かれるが

それほど

好きなわけでもない

きらいなわけでもなく

けっこう見つめてしまうが

好きなわけでもない

 

好きなわけでもないのに

見つめてしまうようなひとびとも

いただろうか

 

いた

 

いる

 

好きなわけでもなかったのに

 

見つめてしまった結果

起こった

いろいろなかかわり

 

そんなことも

時間が

たくさん

たくさん

経てば

散っていってしまう

彼岸花の

花弁のように

 

おゝ!

時間が

たくさん

たくさん

経った後のことを

いまは

知っているひと

わたし!




そんな九月が

 

 

あゝ、また…

 

そして

 

もう…

 

九月が終わるのか

思う

 

子どものころ

夏と

秋との

入れ違っていく月

思い

さびしいような

それでいて

残暑で

けっこう暑い日もあって

さびしがってやるのも

なんだか

癪にさわる

感じもあって

 

大人に

いちおう

なったらなったで

いろいろ

あったような

あり過ぎたような

でも

どの年の九月だったか

もう

区別も

つかなくなっちゃって

 

そんな九月が

また

終わる

 

終わるのか

思う



2021年9月26日日曜日

アゝ!

   

 

悪魔はわれらを破滅に導くためにまず真実を語るという。

些細なことで信頼させて、いざという時に裏切るそうだ。

シェイクスピア『マクベス』

 

 


 

昨年から明らかになったのは

はるか昔に死滅していたかのようだった全体主義が

疫病対策という

一見ケチの付けようもないような「正義」を口実とすれば

易々と復活することができ

それどころか

高度に緻密に繁茂した21世紀の技術を駆使して

大津波の水のように

広域をも覆いつくすばかりか

圧倒的な侵入能力によって

あらゆる細部をも埋めつくす力を得てしまっていたことである

 

全体主義の歴史的モデルとして

私は昨年来

Covid19=ユダヤ人

mRNAワクチン=殲滅収容所

マスク・ワクチン主義者=ナチス党員

という作業図式を架構して

ナチスドイツの政策やシステムの復習に勤しんだ

また

私にとってはさほど馴染みのなかった

(というのもソビエトやスターリニズムについては

(上の世代に専門家が多かったので

(彼らの話を聞いているだけで十分だったように思えたからだが

もうひとつの巨大な全体主義モデル

スターリン主義のソビエト連邦システムにも

遅まきながら再入門をすることになった

スターリニズムにおいては

Covid19=資本主義・自由主義

mRNAワクチン=ラーゲリ―・大量処刑・徹底監視体制等々

という作業図式を仮構して

2020年・2021年との比較を進行させていった

 

しかし

近代社会において最初に高度の全体主義を構築したのは

フランス革命後に社会を簒奪したナポレオンであり

私が知的にいちばん深く関わってきたのは

ナポレオンのこの全体主義体制と闘った作家・思想家・政治家たちなので

ここは一気にナポレオンの時代に戻って

全体主義の基本機序やその破壊の仕方を考究するほうがいいか

ようやく最近になって思うようになった

 

近代初の全体主義者ナポレオンのことについては

今こうして記されつつある

ランボー+アポリネールetc.発明の自由詩形式では

記し続けるのに不適切かとも思われるので

(もちろん

(ユゴー+ホイットマン+オーデンetc.による

(政治批判詩や文明批判詩の成果を見れば

(定型詩形式や自由詩形式を安易に貶めるべきではないが

(詩形式がたえず仕掛けてくる旧弊な叙情の陥穽や

(非論理への誘い

(言語縮約や簡潔や省略への強要などと一字一句ごとに闘いつつ

(適正に処理していく際の時間と労力の無駄を思えば

(自由詩形式は捨て去るに越したことはない

主要な考察は別の書記形態へと譲ることにするが

ナポレオンの出現については

歴史学的に常識に属する事項ながら

うっかり忘れていた事柄に昨夜ひさしぶりに逢着し

アッ!

と声を洩らしたほどだった

 

有能だったとはいえ

なぜナポレオンは

軍人としてあのような異例の成り上がりができたのか?

 

客観的にふり返ればこれは簡単なことで

要するに

彼の上の世代の軍人たちが排除されたからである

 

フランス革命の最初の3年間(1789~91年)に

貴族出身の将校たちの多くが亡命を余儀なくされた

これが大変な数で

1791年までに60%

人数にして約6000人で

1793年の最初の数ヶ月までには75%に上る

フランス軍の上層部はスカスカになり

対ヨーロッパ戦争に突入していったフランスの軍隊では

(1792年4月より対オーストリア・プロイセン戦争

(1793年2月3月より対イギリス・オランダ・スペイン戦争

おのずと若い新世代の将校や下士官に

突然

大きく道が開かれることになった

革命前のフランス内部では売官制が社会を腐敗させ切っていて

軍隊における昇進も金とコネのみに支配されていた

平民やナポレオンのような下級貴族の場合は

旧体制下ではいかに能力があろうとも絶対に昇進はできなかった

コルシカ出身の下級貴族の息子が出生するなど

想像すらできないことだった

 

小さな歴史的事実だが

このようにあっさりとまとめて

誰もが容易に認識できるようになるには

20世紀の歴史学の発展を待たねばならなかったのを思うと

知識の積み上げや考察や検討や検証の積み上げがおのずと生み出していく

モノの力とでもいうべきものに驚嘆と感謝をせざるを得ない

 

そして

これに気づき直す時

アゝ!

と思うのだ

 

前の世代の大量排除が必要とされる!

前の世代の大量排除が必要とされる!

どうしても!

世界の劇的改変のためには!

mRNAワクチン=殲滅収容所!

mRNAワクチン=ラーゲリ―・大量処刑・徹底監視体制等々!

アゝ!

やはりそういうことか!

 

mRNAワクチンは若者も子どもも殺し

とりわけ生殖能力を根こそぎ破壊しようとするものだが

ここで命を奪われ

再生産能力を奪われ

生活能力を毀損されていく若者や子どもは

mRNAワクチンの接種を受け入れてしまう時点で旧世代の人間であり

したがって滅びなければいけない!

そういうことだったか!

やはりそういうことだったか!

アゝ!

 

気づき直すのだ!

 

アゝ!

 

 

ちなみに

ナポレオンに対する最大の攻撃者のひとりとなる

のちのルイ18世治下に大臣や貴族院議員を歴任した作家で政治家

シャトーブリアンは

ナポレオンの一歳年上で

青年時代にやはり軍人になろうとして就活に明け暮れた時期がある

フランス王国海軍に入ろうとしてブレストに行ったりしている

しかし彼の場合

下級のナポレオンとは比較にならない貴族階級であったのに

軍人にはなれないで終わった

貴族としての名誉と便宜は兄のシャトーブリアン伯爵が占有してお

その兄のために大金を叩いて官位を買ってやった父には

弟のほうに使ってやれる金はもうなかった

まだ旧体制の時代の就活であり

十分な金もなければ

いまひとつ有力なコネに欠けていたシャトーブリアンは

栄光のフランス王国海軍には入れずに終わり

長男に生まれ得なかったブルターニュの田舎貴族の末っ子として

パリに出て

伯爵の兄や貴族の家に嫁いだ姉たちの家をまわって食客をしながら

靴下売りなどの商売を細々としつつ

フランス革命の勃発を迎えることになった

 

革命勃発後に海軍に就活していれば

シャトーブリアンにも出世の機会はあったかと思う一方

伯爵の兄を持つ彼の場合

(しかもその兄は妻とともにギロチン台の露と消えることになる)

革命期でも軍隊での出世などあり得なかった

と思い直す

 

 

令和の日本では

若者のあいだに「親ガチャ」なる言葉や諦念が流行っていて

親が金持ちや社会的に高位でなければ

どう頑張っても出世はあり得ないとの認識があたりまえになっているそうだが

「親ガチャ」だけでなく

「国ガチャ」もあれば

「地域ガチャ」も

「時代ガチャ」もあって

それらが合わさって

ほぼ当たりのない宝くじ遊びに強制参加させられているだけだとすれば

mRNAワクチンでも接種して

さっぱりと「因果関係不明」な死を遂げるか

死ぬほどではないものの

二度とふつうの生活に戻れない身体不調に苛まれながら

(医療費はすべて自己負担である…

結局は自殺を遂げるか

そうでなくても醜い肌になって

異性との出会いを諦めるか

異性と交尾するに到ってもどうせmRNAワクチンで不妊症の双方の身体

万が一生まれても奇形児・障害児の続々たる連鎖で

いずれは一家心中

家系断絶しか待っていない…

 

アゝ

すばらしい令和世界へ

ようこそ!

ようこそ!

 

 

 

 

[テーマの意図的かつ不完全な混合、理屈立って思考を運んでいるかのようで、かならず所々に錯乱を挿入すること、政治や文化論などにたっぷり寄り道するともに、ふいに出来する叙情…などは、日本の戦後昭和期の「現代詩」なるものによって展開された手法であり、それを令和初期の現代においても使用してみているところに、私のしつっこい保守精神が露呈している、と自己分析、いや、自己批判してみせるところは、共産中国の文化大革命の浅薄な上っ面だけの模倣の試みでもある。造反有理!とでも加えて叫んでおこうか。そういえば、こうした「自己批判」を文革から借用して中期の創作に差し挟んでみせたことが、ル・クレジオの創作物にはあった……]





2021年9月24日金曜日

すべては血管経由でしか

  

もっとも親しい友の最期に

一年半つきあい続けたが

その時に否応なく学んだのは

大病に罹った時も

人生の最期の時も

検査であれ治療であれ

すべては血管を通してのみ

行われるということ

 

衰弱がある程度まで来ると

血管は扁平になって

注射針が入らなくなってしまう

そうしたら諦めることになるのだが

そんな諦めはむしろ

肉体を持つ本人には幸せなこと

 

問題なのは

血管が扁平になって

注射針を受け入れなくなるまで

さんざん針を打たれ続けるということ

血液検査であれ

点滴であれ

すべては血管経由でしか

できないから