2017年8月31日木曜日

甘ァいロマンしたりしないよね



またもや
愚かな発言を耳にした

非人間的な都会など捨てて
田舎に帰ろう
そうして
汲々とせず
はるかに少ないお金で
人心もおだやかな環境の中で
自分自身を取り戻して
生きていこう
そうして
人間にふさわしい
自然により近くなった
この自分の心の声を
まわりにも
都会へも
世界へも
発信して世の中を変えていこう

そんな発言

愚かだなァと思うのは
自分の声を発信するなどということこそ
都会
活動だというのに
わかってないのだな
こいつ
っていうところ

なに
言ってんだろうね
まったく

発信するっていうけれど
たぶん
パソコン使って
スマホ使って
ネットで
でしょ
発信って?

それが
都会
活動だっていうのに

都会を捨てるんなら
草木山川土空の中に自分を蒸発させちゃえ
自分自分自分ってのが
都会
ってこと

発信って
いうの
もちろん言葉を使ってだろうけれど
それって
都会
っていうこと

言葉は
もう
それだけで高度に“開かれ”
単語をもちろん
文法や語法どおりに使うんでしょ?
それが
都会
っていうこと

言葉
単語
文法
語法
それらには“自分”なんて居ない
居られない
居られようもない

それらは
交流
マルクス的に言うなら
交通

あらゆる田舎が
都会にのみ命綱の生活網のセンターを置いていて
そのセンターの司令でのみ
そのセンターとのやりとりでのみ
かろうじて
田舎
演技を保っている

都会
と離れたら
田舎
でさえ居られない

言い方を変えれば
あらゆる
田舎
都会
裾野でしかない

人の疎らさだけで夢を見たりするな

重病になった時
まさか
都会の病院に運んで治してもらおうなどと
思ってないよね

まさか
都会に本部を置く業者に
商品の宅配を頼んだりしないよね

業者の社員たちも
宅配業者の社員たちも
注文を取り次ぐネットの運営管理会社の社員たちも
みな
都会
ちゃんと居続けてもらって
自分だけ
都会
捨てた
捨てちゃった
なァんて
甘ァいロマンしたり
しないよね



2017年8月30日水曜日

『シルヴィ、から』 2

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩 
 [1982年作]

 (第二声)


 そのとおりだ、聞け、わたしが語る。

 ながい旅の途中、嵐の田舎道でわたしはシルヴィを見つけたのだった。

 激しい風が横なぐりに吹きつけ、黒くもあり白く輝くようでもある巨大な雲の無数のかたまりが、遠い低空を風に引きずられていた。

 わたしの辿るぬかった道は、やや広い間隔でその両わきに立ちならぶポプラとともに果てることなく続いていた。雨はあまりにも激しく、並木の影響もあってか頻繁に向きを変えたので、傘をさすのはとうに諦めていた。
全身びしょ濡れになって歩いていた。濃紺の毛の外套は、厚い濡れ雑巾のようにじっとりと水を吸い、革靴は薄い水っぽい肉片のようにじゅくじゅくと音を立てていた。

 シルヴィは片方の掌を、ある一本のポプラの根本のやゝ醜怪な瘤の上に力なく開いて倒れていた。
中央にしろ、端にしろ、少なからず泥に足をとられるのにかわりはなかったが、それでも道の中央を選んで歩いていたわたしからは、はじめ、その掌だけが見えた。

歩み寄ると、掌は、わたしの近づくにつれて、道のはずれへ、泥まみれの大きな溝の雑草の繁っているところへと裸の腕を伸ばした。腕はやがて泥濘と薄汚れた緑の中でひどく蒼ざめている裸の胸を生み、頭を、体を、足を生んだ。

嵐の道端に、泥にまみれて裸で横たわっている女だ。

紫の唇に、眦に、鎖骨とそこから滑り落ちる窪みに、かなしみのように千々にわかれて貼りついた、幾分、色の不揃いな金の髪を見つめながら、記憶の深い沼の底から、木目の際立った大きな古い木片にさえ喩えうる、過去に繋がった、いや、過去から投じられたひとつの懐かしい実感が、ゆっくりと浮上してくるのを感じていた。

シルヴィだ、とわたしは思った。
ところどころ傷んだ大きな赤革の旅行鞄を泥の中に横に立てて、その上にでも座り、これから半時間でも、いや、半日でも、この横たわっている肉体のかたわらで一服していたいような奇妙な欲望を覚えた。

実際には、彼女の顔の間近に屈み込み、かすかな息を認め、閉じられた目のあたりに、たゞ、とにかくも生きているという事実を見てとりながら、これこそがシルヴィだと、ふと思い出した詩句のように心の中でくり返していた。

わたしは自問した。問わざるを得なかった。わたしは何処をめぐったか。なにを求めて歩いてきたか。この数年間を、この泥まみれの旅の中を。そして、シルヴィとはなんだったかを。

ふと、さっき道の途中ですれ違ったひとりの老婆のことを思い出して、この場の雰囲気にいかにもそぐわぬさまで、弾かれたように往来の中央に飛び出すと、すでに歩んできたはずのこの道の後方、その彼方を眺めてみた。
道はどこまでも真っすぐで、はるか彼方、地の果てに突き当たるかと思われるあたりで雨の中に消えていた。
老婆の姿はどこにも見えなかった。
わたしは安堵した。
さっき老婆とすれ違った際、心に受けた予感のようなものと怖れを思い出したからだ。
老婆が後方に去った刹那、わたしはそのほうを振り向こうとしたが、突然、体の自由を奪うような静かな恐怖が、大地から脚を伝って全身に沁みわたるのを感じたのだった。
その怖れの中を、望まれもしないのにどこからとも知れずやってきた思いが、じっとりと広がりつつあった。
老婆は確かに歩き続けていくだろう。
わたしがせっかく辿って来た道をわざわざ戻って行くだろう。
しかし、わたしがふり返った時には、その姿は認められないのではないか…
そんな思いが、振り向こうとして振り向けないでいるわたしの心を領していたのだった。
すでに胸のうちに鮮やかに映像化されていた、歩んでいく老婆の光景の上に、この思いは半透明の薄い膜のように重なって、複合された新しい印象を生み出した。恐怖は、茶色のガラス瓶の中の白濁した、病弱な幼年時代の馴染みの、シロップで甘みを加えられた薬のように、やゝ親しみやすいものとなった。
予感に違わず、本当にどこにも老婆の姿が見えないのを知ったわたしは、いまやその恐怖を、シロップで甘くされた飲み薬のようにゆっくりと呑み下したわけだった。
それでも、老婆の印象は切れ切れになおも浮かび上がった。
傘を持ってさえいなかった黒頭巾の小さなあの老婆にも娘の時代があって、わたしがその頃に出会えば心惹かれたかもしれないと考えると、なにか戯れに過ぎたような気がして、わたしはそっとあたりを見まわした。
そして、シルヴィのところへと静かに足を返した。

さっきの欲望が思い出されて、わたしは旅行鞄を泥の中に横に立ててみた。
だが、そこに腰をかけることはしなかった。
わたしはやはりシルヴィの頭のかたわらにしゃがみ込んで、ほとんど思い出そのものといってもよいような、この懐かしい顔を見つめるのだった。

豪雨の中、移りゆく暴風雨の音の中で、静寂が、子供部屋に吊られた蚊帳のようにわたしを包んでいた。
それでいて、その静寂は、どこまでも広がり膨れ続けて、留まりを知らぬようで、お仕舞いには鈴の音のようにこの世の果てへまで滲みわたるかと思われた。

脚がしだいに疲労に凝り固まってくるのを感じながら、わたしは、わたしがわたしであった時代は終わってしまったのだ、と思っていた。
完全に終わってしまったのだという自分自身の断定がわたしを感動さえさせるようだった。

もし本当に終わってしまったのならば、わたしは思い出すことができるだろう。
意識的に記憶を掘り起こして、細く神経のように伸びた真実を引き出してかまわないだろう。
そうすれば、ーーとわたしは空を見上げて思うのだ、その空では、無数の雲塊のうちの殊に壮大な一塊が、今まさにわたしの頭上を運命のように流れていくところだった。
そうすれば、あるいはわたしも自分の位置を知ることができるかもしれない。
そうして、シルヴィとはなんであるのかを、知ることができるかもしれない。

本当に、いま目の前に横たわっているこの娘が、数十年来わたしを放浪させた謎であり、魅惑だったのだ。

はじめて出会ったあの時以来、これほどシルヴィに肉迫したことはなかった。

だが、こうして目の前に、わたしの生のゆくえを変えた娘を投げ出されてみると、謎は全く解かれ得ないという予感を抱くのだった。
この嵐の田舎道のかたわらにあって、もし悲嘆や絶叫が悲愴気な喜劇とならないならば、わたしは全身を以てこの鬱屈を語るだろう。
あゝ、なんという娘、この娘はこんなにもわたしから遠ざかっているまゝなのか、とでも。



2017年8月29日火曜日

『シルヴィ、から』 1

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩 (1982年作)

 (第一声〔喚起〕)

これまで長いあいだ、わたしは自分の数知れぬはずの思い出の中に、ほとんど沈酔していたつもりだったが、ある時、ふとあらためて思い出を数えると、それがすでに十指にさえ満たなくなっていることに気づいたのだった。

 わたしが無数の思い出に満たされていると信じ込んだがゆえに、これまでわたしに疎んじられ、認められなかった多くの声、今でこそ懐かしい声たちよ、おまえたちはわたしの妄挙のために、雨の日の郊外の風景のような独白を、各々みずからの世界に滲み入らせるだけになったが、しかし今、わたしはおまえたちを求め、おまえたちのさまざまな独白の入りまじり溶けまじる中に身を置こうと決めた。

 声よ、語れ。

これまでに散っていった像に細い玉の緒のような手をのばすために、絶えぬ小雨の雨滴の軌跡の隙を縫って、遠いざわめき、ふるい映画に降る雨のあの懐かしいざわめきのように語れ。

わたしがこの世の習慣にしたがって、往々にして信じ込んでしまう、あの、時の流れという考えのために、とうの昔にいかなるしかたによっても手のふたたびは届かぬ彼方に流れ去ってしまったと、たびたび思いもしたあの物語、シルヴィにかかわるわたしの物語を語れ。

幾多の思い出、あると信じた数々の思い出は消え、残っているのはわずかの、それも漠としたゆらめいた風景を呈するにすぎないものなのだが、にもかかわらず声たちよ、わたしはまだぼんやりと憶えているような気もする。

雨が降っていた。

道はひどくぬかっていて、つめたい水をいっぱいに吸い込んだ靴がほとんどふやけるようにも思え、そのなかで足は、指の先からきりきりと刺し込まれてきたような冷たさになかば縮こまっていた。雨をふくんだ外套が重く、長かった髪はうなじにはりついて、その髪の背中へと垂れ入る先から水がしたたり落ちて、細いながれを肌のうえにつくっていた。
どこまでも同じ道で、空をあおぐとそのたびに異なる巨大な雲のかたまりが、あたかも大地とのあいだに途轍もない軋めきを生むかのようにして流れていった。

嵐だったにちがいない。

声たちよ、どうだ、そうではなかったか。

語れ、さらにはどうであったかを。



『シルヴィ、から』 序

複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
『シルヴィ、から』(1982年作・2017年補訂改訂)の
2017年版の補訂・改訂協力者による序



作者がジェラール・ド・ネルヴァルの『シルヴィ』を知っていたのは明らかであるし、それを証拠立てる箇所は、これから読まれようとしている書きもののうちにも見出される。
だが、作者がネルヴァルの名作を意識しつつ、模倣じみたことを企ててこの書きものを成したのだとは即断しないでおいたほうがよかろう。そもそも、内容もテーマも、形式も、ネルヴァルの作品とはまるで異なっている。作者にとっては、(彼がいささか不用意な用語で私に語ったところによれば)“問題”や“宿命”や“生”が、たまたま「シルヴィ」という名前をとって現われたにすぎず、この書きものの中で、彼はそれをそのままの名で用いたのである。
1980年から1982年にかけて書かれたこの作品は、当初は小説として創作された。ホメーロスからミルトン、さらにはシャトーブリアンの『ナッチェ族』や『殉教者たち』に連なる叙事詩形体の選択は、1978年に発表され1979年に初演された木下順二の『子午線の祀り』の群読形式に刺激されたものだろう。作者は当時、西洋音楽のオラトリオや教会カンタータにさほど通じていなかったようなので、そちらのほうから刺激を受けたとは思われない。ただ、ダンテの『新生』は意識の奥底にあったのではないかと思われる。
書かれてから35年ほどが過ぎた2017年現在の時点で見ると、すでに言語表現の世界では小説の衰退も顕著であることから、私は、今なお存命中の作者に、この作品を叙事詩として整え直してみることを勧めた。韻律の完備などを施すまでのことは不要だろうが、多数の異なった声が一人称で語り継ぎ、ひとつの自我の物語を形成していくこの作品の形式には、叙事詩という認識こそふさわしいだろうと思われたからである。
作者はこれを快諾し、2005年から結成されていた小説同人集団IO(イオ)の面々の中に、作者と私も加わって、5人で補訂・改訂を行うことになった。
作者本人は、日本という風土にも、1980年代以降現代に至るまでの時代風潮にも、この作品が全く合わないと考えており、原稿はなんども廃棄されそうになった。自国や時代の風潮と徹底的に異なる精神を持って生まれてきた作者がそう考えるのは、わからないでもない。しかし、少なくとも、今回の補訂・改訂に加わった私たち4人は、この作品を創作した時点での彼の精神や趣味を共有しており、5人で朗読を重ねながらの今回の改訂作業は、近頃では稀な閑雅な楽しみの機会ともなった。


リヒティエン・ムーキェイ

体言しようよ



ゲームはすべて閉域で起こる
逆にいえば
いかなる閉域で起こるものもゲームに過ぎない

家族 地域 領域 
国  地球 太陽系 銀河系 
時間 空間 地場 電場
 …  …  …  …

ゲームが嫌いで
閉域が嫌いなわたし
ど~しよ~?
というのが人生のちょっとした問題だったが

ゲームにも
いろいろあるからね~
というおしゃべりのしかたが
ゲーム好きさんたちに向けては
ないでもなかった
(そ~してきたしィ~)

白い紙を延べたり
白い文書ページを開いたりして
そんなれっきとした閉域に
閉じ籠もることを選んだのも
ゲームのうちだしィ

言える
のは
わかっている
って
ゆ~か
常識だしィ
そんなの
気づいているのッて

さて。

断言の表現はいかなる効果を生むか
生まないか

断言は終止形

体言止めも使われるが
微妙に体言止めは
やわらいじゃう
体言止めはやっぱり逃げてるんだよね
やわらいじゃう

自由が忍び込ましてある

おお体言!
なんじは自由の保存の女神であったか?

やわらいじゃう
いいよね

やわらごうよ
ぼくも
わたしも
あたいも
あんたも

やわらいじゃおうよ
体言しようよ
もっと

もっと



2017年8月28日月曜日

うっすらと幾重にも重なっては来ていた、と…


いざ最悪のほうへ
サミュエル・ベケット


世の中、ずいぶんおかしくなってしまっている…

そういう声はよく聞くけれど
ずいぶんおかしいとピリピリ思うほどに
理想みたいなものや夢みたいなものは
大きく大きくなり続けたということなのかもしれない

原発がぶっ壊れた後の放射能への対応は
この国まるごとおかし過ぎてて
やばいぜ、かなり
とはたしかに思ったし
ますます今も思っているけれど
大地震を機に隣国の在留外国人を虐殺したり
ただでさえマンパワーが足りなくなっていくさなか
貴重な若者たちを自爆ドローンに変えて送り出すような思考法は
ほんの少しは疑われるように
なってきつつはあったのではなかったか

…そうでもないかな?

この列島の歴史を見ても
世界中の歴史を見まわしても
どうにもこうにも
人間というのはとんでもなく異常でおかしかったし
残酷だったし
無責任だったし
知性的でもなかったが
時間が経って
いろいろ経験が積み重なるにつれ
あれやこれの毒キノコを避ける知恵がちょっとずつ付いていく程度には
たがいに苦しめあわない知恵が
うっすらと幾重にも重なっては来ていた
と…

思っていては
甘いのかな、やっぱり?

そんなこんなを思いながら
いい
悪い
のわかりやすい基準をちゃんと作り直さないことには
どうにもならんがナ
よく考えるんだが

ともかくも基本は
たがいに苦しめあわないこと
自然をもう壊さずいじり過ぎないこと
そんな簡単な柱を
据えてみて
あらゆる細かいことへ
瑣事へ
向き直るってことかな

そんなことを
忘れないように
忘れないように
と心の備忘ボードに貼りつけてあるんだが

甘いのかな、やっぱり?

他人を苦しめるのをなんとも思わない大軍勢や
他人を苦しめてやろうと日夜研鑽を積んでいるかのような連中や
自然なんて財産つくりの庭か資材置き場と見ている者たちや
毒になるものはなんでも流したり埋めたり風に散らせば
あーら不思議
ぜんぶ大丈夫っていうお気楽さんたちが
ますます元気に蔓延っていっている地上を眺めていると




懐かしい人に自分までなってしまっているかつての幼児


 
台所流し用のそのゴミ取りネットは
包装ビニール袋の真ん中に開封線があって
そこを上下に引っぱると容易に開く

何度もくり返し購入し
ずっと使い続けてきていたのに
今までその開け口に気づくことがなかった

袋の端を切り開いて取り出し続けてきていて
この商品は便利だが開封は不便にできていると
いつも思い続けてきていた

こんなことはよくあるにしても
ずいぶんな頻度でこれが起こっていた時期が
思い出の奥にあったように感じた

その思い出の奥の奥に
ずいぶんひさしぶりに下りて行く
扉を開け引き出しを開け古い箱のひとつを開ける

あゝ、祖母のあのしぐさか…
チューインガムでもキャラメルでも
幼児だった頃に開けてくれた際のしぐさ

赤かったり透明だったりする開封テープが付いているのに
祖母は糊づけされた包装の端っこをいつも爪で剥がし開け
ずいぶん苦労しながら中身を出してくれた

幼児なのに私のほうが開封の仕組みには慣れていて
開封テープを抓んで引っ張っていけば
くるりと周回して開いていくのを知っていた

おばあちゃん、ここを抓んで
引っ張ればいいんだよ
と何度も何度も幼児のほうから教えてやる

あゝそうなの、いつも忘れっちまう
と言いながらテープ端を引っ張ろうとしても
祖母はそれをうまく抓むことができない

こんなちっちゃいところは抓めないよと
けっきょく包みの端を爪でガリガリやって
固い糊づけを剥がしていこうとする

思い出の奥の奥の扉を開けたまゝで
引き出しも開けたまゝで箱も開けたまゝで
かつて現代的開封方法の巧者だった私がいま立ち尽す

新しい開封方法が備わった包装の端っこを
いつのまにか爪を立てて苦労して開けようとしている
懐かしい人に自分までなってしまっているかつての幼児



2017年8月27日日曜日

たぶん どこでも

  
ちょっと
時間ができると
見てしまっていたりする
都心の上の

色はうつりかわり
雲は変わり
絶えることなく
流れ
流れて
豊かだと思う
都心の上の
空でも

地方住まいの人から
メールが来て
東京にお住まいなんて
大変でしょう
人の暮らすところではないでしょう
言われたりするが

暮らしていますよ

空が
あるところなら
たぶん
人は暮らしていける

色がうつりかわり
雲が変わり
絶えることなく
流れ
流れて
豊かだと思えるところなら
たぶん
どこでも



それらもいつもどんな時もわたし



わたしボーヨーとしてるので
街に出ても
街に出たのか
街がわたししてるのか
よくわかんない
あまり境目がない
なにかとわたしのあいだでも
あっちがわたしかも
って感じよくある
こっちはいちおうわたしなんだろうけど
あっちもわたしなんだろうなって
いつも感じる
雲なんか
たいていわたし
空のひかりも暗がりも
だいたいはわたし
都市はうるさいとか冷たいとか
平気で言う人多いけど
わたしどの都市もわたしに感じる
ひとりぽっちに感じることって
ないなぁもう
さびしさもわびしさも
ないなぁもう
見えているもの聞こえているもの
みんなわたしな感じ
とりあえずわたしの顔の皮膚なんかより
わたしの中に入って来てるものね
いちばんわたしの外にあるものって
わたしの背中とか歩いている時の足裏とかかな
でもそれらもなんとか見える時にはわたし
見えない時にもわたしと繋がっているから
やっぱりわたしだろうなと考えるようになってからは
それらもいつもどんな時もわたし



いいんだよなァ あれ



この店
入ろうかなァ

でも
入らないんだなァ

入る時って
どうして
入るのかなァ

入るって
決めるのって
なんなのかなァ

入らないでおこう
と思いつつも
けっきょく
入っちゃう時って
なんなのかなァ

入る気なんて
ぜんぜんなかったのに
入っちゃっている
時なんかも
なんなのかなァ

いいんだよなァ
あれ

楽しいんだよなァ
そういうの