2021年10月24日日曜日

幻影


 

近松徳三の『伊勢音頭恋寝刃』2021年版上演を見たのは

隼町の国立劇場の一階三列二十一番の席で

舞台も近ければ花道も近かった

花道の七三にあるスッポンも間近い

 

近視なのでいつも舞台に近い席を買う

関係者からトチリ席を取って貰ったりすると

特上の席なのはわかっていても

近視の目には舞台が遠いので不満だったりする

前から五列ぐらいまでがお気に入りなのだ

親が現白鸚や三代目猿之助と知りあいだったので

なにかの機会に券を取って貰ったのが縁で

『蹔』や『車引』をはじめて見て以来

歌舞伎にぞっこんになってしまって

大学生の頃いい席のみで見る歌舞伎通いの味を知り

アルバイト収入は右から左へと消えていった

二十代三十代は完全に日本文化から離れたので

歌舞伎座にも国立劇場にも行かなくなったが

コクーン歌舞伎で勘三郎の大活躍を見てからは

いつのまにか観劇に舞い戻るようになった

歌舞伎座のハイライト的見世物はあまり好まないものの

国立劇場の通し狂言での出し方には

古典鑑賞として地道につき合い続けている

 

『伊勢音頭恋寝刃』のような地味な劇を見るには

舞台の間近や花道近くの席はとてもいい

舞台から花道に入ったところで役者たちは止まり

なにかしらの演技をカデンツァとして行うので

息遣いがじかに伝わってくるような至近距離もいい

凝視はされないまでも役者たちの目は

近くで見上げているこちらの顔を確実に捉えているので

見ているだけでなく見られてもいると感じる

そんな感覚は舞台や花道近くの席でないと味わえない

 

今回も中村梅玉や中村扇雀たちが花道で立ち止まり

いろいろと演技をするのを間近で見続けたが

中村萬太郎や中村かなめや中村梅蔵たちが

脇を固めながらの大活躍を目の前でするのを見ていた時

彼らが演じる役柄たちもこれらを創造した徳三も

1700年代末から1800年代以降の日本の成り行きを

当然ながら全く知らないのだとふと気づき直した

当たり前のことで驚くべきことでもない

しかし目の前に生き生きと演じられている人物たちが

1796年創作の時点より以降の日本を知らないのだと

今さらながらに気づき直してみるとショックだった

幕末から近代のどうしようもない歪みも表向きの刷新も

全く知ることなく奴林平や杉山大蔵や桑原丈四郎たちは

こうして舞台に花道に華ある脇役として躍動している

これはどういうことかと異界に放り込まれたようだった

古典やフィクションというものの不思議が降りかかった

幕末以降現代までの日本を全く知らない日本人が

観客たちよりもかくも生き生きと躍動している様が

どう解釈していいのかわからない謎を突きつけてきた

 

もうだいぶ昔のことになってしまうが

馴染みの『勧進帳』をたしか九代目松本幸四郎が演じたのを

歌舞伎座で見直した際のことだったと思うが

幸四郎の口舌のよさが際だった劇が跳ねた後にお手洗いに行って

もう人もいなくなった脇の廊下をふとふり返った時

何の違和感もなく弁慶が立っていたのを見たことがある

義経をうまく逃がすのに成功し

六方を踏んで花道を走り去って行ったと見えたはずの弁慶が

歌舞伎座の脇の廊下に立っているのだった

もちろんこれは私の見た幻影であって弁慶がいたはずなどない

だが私としてはこの時たしかに弁慶を見たと感じ

弁慶や歌舞伎というものの奇妙な霊体のようなものが私の意識の奥

あまりに深く入り込んでいると確認した瞬間でもあった

あくまでフィクションの中の人物造形としてであっていいのだが

あの弁慶という男は源義経を本当はどう思い

自分の運命やべつの行動の可能性についてどう思っていたか

そんなことがしきりに思われてならなかった

建物は変ってしまったものの今でも歌舞伎座に行くと

脇の廊下に入り込んだ時には実体験のように思い出す

あの夜ここに弁慶が立っていたのを私はひとり本当に見た

それが幻影に過ぎないと考えるべきことを私はよくわかっているが

しかしその経験が私自身についての私の認識を大きく掘り下げ

現象や世界についての今の私の見方の土台を作っている

ひとりの人間の意識にリアルな変容や気づきをもたらすのならば

幻影の幻影たる性質とははたしてなんだろうかと

202110月の『伊勢音頭恋寝刃』を見た後の私は

ゆくりなくもまた思い返しはじめている





小事

  

 

ちょっと長く生きてみれば

だれにでもわかるはずなんだが

大事なのは

やっぱり肉体ではないし

やっぱり現象ではない

かといって

観念でもない

思想でもない

感性でなど

もちろん

ない

 

お前さんの好き嫌いでもないし

伝統とかいう伝説でもない

たいして根の深くもない習俗でもないし

もちろん

愚かで怠惰な体制主義者がすぐ口にしたがる

マナー

とかなんとか

でもない

 

共有できるような

大事なもの

なんて

どこにもない

っていうことのほうが

大事

っていえば

大事

 

さらには

大事なものなんて

じつは

やっぱり

ありませんね

っていうことのほうが

大事

っていえば

大事

 

もちろん

そんな

大事

ってのも

たいして大事じゃない

って

わかっていくほうが

大事

 

なんだけど

その前に骨になる連中がいっぱいだし

わかっても

どうせ

骨になるだけなんだけどね

 

いっそのこと

小事

とでも言い換えたらいいと思うよ

 

命は小事

心は小事

地球は小事

なんでもかんでも

じつは

小事

 

このほうが

よっぽど

せつなくて

かわいいように

思うよ


こう呼べば

きっと

もっともっと

大事に・・・


オッと!

そうじゃなくて

小事に

小事に

されていくと

思うよ





そうとしか思考が動いていかないボク

 

 

 

真実とは、みずから錯覚であることを忘れた錯覚である。

フリードリヒ・ニーチェ

 

 

 


SF好きか

と問い直せば

それほどでもないのだが

(理由:SFは人間分析が粗雑過ぎるし、

(世界観や作品内の諸システム構造に大抵詰めの甘さがあり過ぎる

頭の中は日頃ほぼSFであるボク

 

だから

テレビドラマふうの恋愛物語とか

社会問題剔抉ふうのドキュメンタリーとか

つまらなくて

つまらなくて

 

悪いね

そういう映像商品や

書籍商品の

いい消費者じゃないんだよ

あんまり

 

ながながとエレベーターを待っていても

えんえんと盛り上がりに欠ける会議に出ていても

だから

飽きるということがない

どんな光景もマトリックスのある面からの偏向映像に過ぎないから

この裏や

この裏の裏や

奥の奥の奥の奥に

じつはこんな配線が

じつはこんな混信が

じつはこんな平行時間と共時複数空間が

などと

いつも思っているボク

 

悪いね

そうとしか

思考が動いていかない

ボク





なぁんにも言えない

 

 

詩人でもないのに

自由詩形式を使って単語ならべをしてみるようになって

もう

ながいことになる

 

この遊びを

自由詩形式単語ならべ

とでも

名付けておこうか

思ったりするが

なんだか

そういう名付けをするのも子供じみているので

やらない

 

それにしても

自由詩形式なんか使ってみると

なあぁんにも言えない

ということが

ほんとに

よくわかる

なあぁんにも言えないのだ

ほんとに

 

ちょっと言いたくなったことのうちの

ほんの一部だけ

取り上げて

やるせないほど俗悪な照明をして

一瞬の効果だけを

獲得

しようとする

 

自由詩形式っていうのは

そういうもの

 

けれど

じゃあ字数の多く使える小説や論説ならいいのかというと

あれだって

どうしようもないほど

なぁんにも言えない

サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』や

もっと小振りのジャン・ジュネ論『聖ジュネ』みたいに

巨万の単語を使って

大言壮語しようとしてみてもいいが

それだって

なあぁんにも言えない

 

小説ときたら

もっと

ひどいペテンだ

書き込む

とか

描き込む

とか

いろいろ紋切り型の形容が

小説のまわりには電子のように回っているが

たとえば

人物たちの服装や

室内の調度などの書き込みように注意して読んでみたらいい

まったく描き込まれてなどいない

ある人物のある時の服装や着物はずいぶん描き込まれているのに

その人物の他の時の姿の書き込みはなおざりにされ

他の人物の服装に到ってはまったく描かれないなどということが

唖然とするほどあり過ぎる

いくらでも単語を使用できるはずの小説にしてさえ

そんなものなのだ

小説小説小説と言うが

結局あれは自由詩の長大版に過ぎない

最初から完全な描き込みは無理だと覚悟してかからないと

長編詩としての小説の本質を取り逃がす

 

そこへ来れば

自由詩などは堂々と

最初から不完全さを看板にしているんだから

大したものだ

オレ

書き込みなんてできねえよ

書き込む気

最初からねえよ

って

公言している

宣言している

そこから

逆の自由さや完全さを

引き出してさえ

いる

 

詩人でもないのに

自由詩形式を使って単語ならべをしてみるようになって

わかったのは

こんなようなこと

 

なんでも

実際にやってみないとわからないことがある

いっぱいある

ヘタの横好きでもなんでも

やってみてはじめてわかることが

ほんとにいっぱいある

 

なぁんにも言えない

ということも

よく

わかる

 

なぁんにも言えない

ということも

けっこう

味があったりする

ということも

わかる





室内庭園で人を待ちながら

 


ついさっき

なにか

書き留めたおりに

壮絶な

と言っていいほどの物狂おしい懐かしさで

埴谷雄高の『死霊』の

あのページこのページが

思い出された

 

ただ

それだけのことだが・・・

 

あゝ

あれは

いつの時だったか

ヘリオトロープの咲く

室内庭園で

人を待ちながら

『死霊』を読んでいたことがあって

そこの

生ぬるいような空気と

ちょっと汗ばむような暑さとが

いっぺんに

いっしょに思われた

 

まるで

北原白秋の「室内庭園」のような・・・

 

あれは

どこだったか

あゝ

あれは

いつの時だったか


暮れなやみ、暮れなやみ、噴水の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤くほのめき、
やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
わかき日のなまめきのそのほめき静こころなし。

尽きせざる噴水よ………
黄なる実の熟るる草、奇異の香木、
その空にはるかなる硝子の青み、
外光のそのなごり、鳴ける鶯、
わかき日の薄暮のそのしらべ静こころなし。

 

 


 

*北原白秋「室内庭園」より。





怒らせればいい

  

 

人を訪はずば自己なき男月見草

中村草田男

 


 

 

他人よりも高度の認識や理解や思想を持っている

などと

どれほど

どこまで

顕示したがるものか

人は

 

そう思わされる

光景

ばかり

 

風に散る話しことばでばかりでなく

文字に長々と書き連ねたがる人びとさえいて

いっぱいいて

 

ぼくは悪戯者なので

怒らせればいい

いつも

思う

 

顔に水を掛けてやってもいい

目の前で

バ~カ

言ってやってもいい

フフン・・・

洩らしてやってもいい

事細かに

かれらの認識や理解や思想のネジを

キシキシ緩めたり

分解したりしてみせてもいい

 

とにかく

連中が怒ったら

それで終わり

結局

かれらの認識や理解や思想など

たいしたことはない

一発でわかる

 

本当に高度の認識や理解や思想を持っているなら

かれらが怒ることはあり得ない

かれらの認識や理解や思想は

反論や敵対や嘲笑を

即座に消化してしまうシステムを持っているはずだから

そうでない場合でも

かれらは

反論や敵対や嘲笑を取り込める思考システムへの変更に

ただちに取りかかるはずだから

 

怒らせればいい

 

一発でわかる





晩秋

   

谷崎潤一郎はバルザック全集を読破し

芥川龍之介にもバルザックを勧めたというが

フランス語の読めなかった彼が読んだ全集とはなにか

 

東京創元社のバルザック全集は大学時代の私の愛読書だったが

全訳にはほど遠く実質的には代表作集だったので

谷崎の頃にも全集があったとは想像できないのだが・・・

 

バルザックを読むために必死でフランス語をやったが

中級程度では歯が立たないバルザックの原文のうちでも

『知られざる傑作』などはまだ読みやすくプレイアッドで読んだ

 

どこへ行くにも分厚いプレイアッド版をわざわざ持って

バルザックバルザックバルザック・・・と打ち込み続け

卒論もバルザック論だったし生涯バルザック研究のはずだった

 

個人的な読書史の上ではバルザックから私を逸らしたのは

1980年に変貌したル・クレジオと当時絶好調のドゥルーズで

古今集にも馴染んでいたところへ偶然寺山修司が飛び込んでも来た

 

精神的無一文の私はバルザスィアン(バルザック好き)であることを

唯一のアイデンティティとして東京の晩秋を彷徨ったが

ランバルディアン(ランボー好き)でもあってガルニエ版を携帯した

 

マラルメの碩学松室三郎先生のマラルメ講義にもぐった時は

象徴詩の論評課題にマラルメでなくランボーを許可してもらって

あの時は確か『イリュミナスィオン』の中の「Dévotionを扱った

 

晩秋の大学ほど薄ら寒く侘しくさびしいところはない

人の絶えた廊下から中庭に出れば大きな銀杏は黄金の葉を落し

どこか寒い世界から染み上がって来たような空気が妙に澄んでいる

 

誰かに会いたい気もしながらそして偶然会えそうな気もしながら

ゆっくりと足を運ぶうちに結局誰にも会えずに校門を出て

舗道に出て夕闇の信号の色を心に吸いながら街の繁華なほうへ行く

 

だんだん人の数が増えて雑踏の中をすり抜けるように進みながら

こんなにたくさんの人がいるのになんと独りの晩秋かと感じ

重いバッグの中のバルザックやランボーにちょっと魂を寄せ直す

 

ひょっとしたらもう私はひどく年老いて死んでしまってさえいて

昔むかし経験したことのある学生時代を懐かしんですべてを妄想し直し

もう何も残っていないのに晩秋の繁華な街さえ想像してみているの