2020年5月31日日曜日

キャサリン


要記録と判断した事柄は手帳に細かく記入している。
記入しておかないと後で困ることが多過ぎる。
もう朝。
開いたページの上に、黒いプラスチック軸のペンを斜めに置いてある。
書くのには0.7の太さが快適なので、黒字はこれしか買わない。
MITSUBISHIJETSTREAM uni 0.7だが、
他にもより書きやすいものがあれば、躊躇なく買うだろう。
キャサリンと呼んでいた娘を急に思い出したが、
農業工場のようなところに就職し、茨城の奥に家族で越した後、
連絡は途絶えてしまっている。もう七年以上になるか。
町田や上野で飲んだことがあった。
日本人だが、猫のような目をした明るい魅力を持った娘だった。
ついこの間まで本名もすぐに思い出せたのに、なぜか、
思い出せなくなっている。
キャサリンという渾名だけがスッと出て来る。




さようなら!さようなら!さようなら!



「ああした遊びはみんなやってみた」
ル・クレジオ『愛する大地』


生きていて
揺動し続ける意識があれば
誰でも何ごとか「思」っているだろうし
その思いが口から声に乗って他人の耳の鼓膜を振動させれば
他人はなにかしらの印象を受けとり
脳内に反応を起こすだろうが

しかし
誰の思いも結局は大同小異であり
つまりは声に乗ったり文字に乗ったりしなくても
もともと他人の意識内に原型があったはずで
だとすれば
そもそも表白などされる必要がなかったといえる……

こう書き落としてみれば
すぐに味気ない理屈のようになってしまうのだが
ほんとうは
なにを口に出すにも
なにを記しはじめるにも
こんな但し書きからはじめないと気が済まない性質なので
いきなり
白雲の浮かぶ空を語ろうとしてみたり
打ち寄せる波の音が絶えない浜辺の光景を描写しようとしてみたり
街にそぼ降る雨に濡れた大通りに滲む信号機のひかりの色を
こうでもないああでもないと言葉にしようとしてみたり
そんなことは
辛かったし
苦手だったし…

しかし
それでも
ほぼ
みんな試してみた

まだ試し続けられる
いくらでも試し続けられる

でも
生前葬をしておくべき時だ
言葉界に対しても

さようなら! 20世紀後半から21世紀までの日本語!
ずいぶんたっぷりと使わせてもらったよ!
さようなら! ぼくが滞在し滞留した数十年の地球!

さようなら!
さようなら!
さようなら!




ゆるゆると

 

目が覚めても眠くて眠くて眠くて
眠かったとき
まだ布団から身は起こさないでいるあいだに
意識の中で
周囲のようすが影とひかりの混ざりあいのように見えて
露出に失敗したフィルムのようになり
眠さのために思念も切れ切れで
…起きる…今日は…なにを…する?…まず…あれは…昨日の…
などと断ち切れの単語や文節が
範疇の違うはずのものなのに限界を超えてしまって
影とひかりの揺れに思念の粒や立方体とともにじかに絡まって
故障して停止する寸前のホログラフの乱れのようになり
思った
これがたぶん意識の死か
それとも死の時の意識の崩れと弱まっていく点滅現象か
覚えておこう
死の時に同じような反応現象の中に置かれることになるのか
もう自分も把握できず
しかし
意識だけは分断されていくつにも切れ切れになって
こんな模様をひどく遅くしかもうまわせなくなった走馬灯のように
ゆるゆると
ゆるゆると…




語弾

 

なにかを書こうとしても
どうしても
私という銃口から語弾を発射するということになってしまう
この銃口から放たれた語弾だという痕を残してしまう

それが厭だった

誰から発せられたのでもない
どの銃口から発射されたのでもない語弾だけで
言語配列は構成したい
そうでなければ醜くて耐えられない

個性を出す
とか
人となりがよくあらわれた
とか
そういう文や詩歌がほんとうに気持ちが悪い

どうしたらいいのだろう?

ラディゲが『ドルジェル伯の舞踏会』で近づこうとしたが
フランシス・ポンジュが『石鹸』で実現しようとしたが
谷川俊太郎が『定義』で試みようとしたが
……成功したのだろうか、彼らは?

ページ数の少ない科学論文や
数学論文をたまに見ると
理解はできないのにそこに理想に近い姿が実現されている
感知されることがある

何語であれ言語による説明が極少であり
ほとんど数式しかないのであれば!

音符もまた理想にずいぶん接近している

音符のよく読めた文芸批評家ロラン・バルトは
シューマンの楽譜を読むのを好んだが
パリの街角の歩道に立っていた彼に自動車が飛び込んで来た時
彼の意識にはまだ言葉のほうが多かったか
それとも音符のほうがわずかながらも多かったか




われはレギオン




イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
    イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 
    そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、
   「名はレギオン。大勢だから」と言った。
    そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 
                                                                                            マルコによる福音書第5章



なんであれ
物事が極端に進んでしまって
世の中が壊れていくのを見るのが大好きである

だから東に自粛主義者あれば
そうだそうだ自粛しないやつの店に火を付けてやれ!と焚きつける
もちろんじぶんではしないのである
西に自粛批判論者あれば
そうだそうだ自粛主義者は馬鹿どもだから撲殺しようじゃないか!と煽る
もちろんじぶんではしないのである

南にWHO破壊論者あれば
そうだそうだトランプのようにガンガンやってやるべきだ!と拍手する
もちろんじぶんではしないのである
北にトランプがどうしようもないと叫く者あれば
そうだそうだ反知性主義者は首根っこ掴んで引きずり下ろせ!と和してやる
もちろんじぶんではしないのである

わが名は民、民衆、群衆、国民、市民、民草、臣民、みんな、ぼくら、わたしたち、われわれ、………

われはレギオン




またグレタさんに


  
ちょっと咳が出たりすると
すぐに
コロナ…?
などと訝られる昨今だが
わたしが咳をする時は
たいていpm2.5が多く出ている時で
昨日なども
どうも咳がするなあ
なんか胸が息苦しいなあ
と感じていたら
やはりpm2.5が「非常に多い」と出ていた

国内でも発生はするだろうが
どうしたって中国から
ごっそりと飛んできている
武漢がやられた頃はよかったなあと
やはり思う
大陸だけコロナでひどくなればなあと
非情なことを思う

思うことは思う
思うことは思うのである
ここのところで上っ面ヒューマニズムを装っていると
またグレタさんに怒られるようになる




ノイズキャンセリング


  
ニュースはスマホやタブレットで見るのだが
シン・コロナのニュースがあると(もちろんいっぱいある…)
目は自然とすべてをすっ飛ばしていくようになった
日々の感染者数や死者数の推移は
五月の連休の頃までは手帳にメモさえしていたのに
それ以降はもう見もしなくなってしまった

じぶんの中で結論が出てしまったということもあるが
新型コロナとか
新型コロナウイルスとか
シンコロとか
なかには珍コロとか
チンコロとか
文字づらとしても音声としても
そんな音の連呼にこころの耳が飽き切ってしまって
こころの耳は擦り切れ防止のために
自動的にノイズキャンセリングするようになってしまったらしい
こころの耳というのはよくできたものである

きっとこれからの時代
あちこちの街角で5人や10人並べて銃殺刑にするような事態に
世界中が向かっていくだろうけれども
その時に響く発砲の音にもノイズキャンセリング機能は発揮されるだろう

人にはどうしようもない運不運というものがあり
自粛に精を出そうとマスクをしっかりしていようと死ぬ者は死ぬ
自粛などせずマスクもせずとも死なない者は死なない
開高健が従軍して伝えたベトナム戦争の銃撃戦の森の中で
皆が這いつくばって銃弾を避けていた時に
悠々と座りながら飯を食べていたベトナム兵の姿や
双方が銃砲を対峙させているパレスチナの戦闘地域の境目を
なにも恐れることなくベドウィンが歩いて行く姿などを
これからはいよいよ思い出し直して覚悟をつけておくのがいい





2020年5月29日金曜日

あゝこのあたりで俺ってのも終わっちゃうのかなと思うのは



「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」
村上春樹『ノルウェーの森』



経験したことのないウイルスの来襲で
人間たちは世界中どこでもあたふたさせられていたが
人をいのちにつなぎ止めようとか
じぶんがいのちにしがみつきたいとか
そんなあがきもかなりあったように感じられた

なるほど10代や20代ならば
もうすこし生きてもいいのにとは思うが
中年や老年にある者なら
急に病を得たり
災害や事故にあったりしたら
その時点で死んでしまったとしても
もうしかたがないと考えてすますべきだと思えてならない
もちろん無事に長生きできるのはいいと思うが
もう30年以上生きたのだから
もう40年以上生きたのだから
もう50年以上生きたのだから
などといった諦念はどの人にも必要だと思う
生き残るまわりの人はまだお若いのになどと残念がったらいいが
死んでいく本人はまぁこんなところかなと思っておくのがいい

そういう諦念がとりあえずあれば
ウイルスでどれだけ死のうが実際にはそう困らない
どこかでみんな死ななければならないのだから
ISに生首を掻き切られるのよりは平和な死に方ではないか
空襲の焼夷弾で焼かれて死ぬのよりもウイルスのほうが格段にいい
地震で崩れたビルに潰されるのよりもコロナ様々ではないか
自粛強制で立ち行かなくなった店で首を吊るよりは
ECMOを付けられて死んでいくほうがまともな死に方だろう
今回いきのびたといってもあと20年もすれば老人はほとんどいな
それなら20年先に死んでも宇宙的になにが変わるのかということになる

なんだか死観がせせこましくなって
これが平和ということの帰結ならば情けないことだと思う
なにもヘンな潔さをいやいやながら発揮しろというのではない
あゝこのあたりで俺ってのも終わっちゃうのかなと思うのは
なんだかとってもヘルシーなんじゃないのかと思うのだ
いろいろな人が死んできたのを誰でも見てきているはずだが
彼らが死んだからといって天も落ちて来ず海も割れたりはしなかっ
つまりたいしたことではなかったわけだし
だいたい毎日厖大な数の家畜を殺しているというのに
地上はそのせいで揺るいだりもしない
じぶんやじぶんたちだけが家畜と違ういのちだとは思わないほうがいい
動物たちにやったことはこちらにきっと返ってくると覚悟しないと
家畜殺しだってなんだか曖昧模糊とした殺しになってしまう

もちろん死にゆく人々は潔い覚悟と諦念の人がじつは多くて
いのちへのしがみつきはマスコミが拵えた印象だったかもしれない
マスコミは人間のいのちはとにかく大事だと伝えたがり
それでいてアフリカのどこぞの武装集団が40何人殺されましたと
ビン・ラディンやカダフィがしっかり殺されましたとか
そんなことにはこれっぽっちの情けも交えず報道したりするが
とにかくも欧米の文明国の人間が死ぬと大ごとに扱うのである
だがそのわりにはどんどん死んでいるアメリカ人たちの人となりなどが
全くといっていいほどこちらには伝わってこないのだが
これはアメリカ国内でも非文明な感じの人々の死だからなのか
それとも低文明な感じの人々ばかり死んでいるからなのか
単にマスコミが怠惰なだけか死亡欄のスペースの節約のためか
それとも数だけカウントし続ければいいだろうという
なかなかハードボイルドな達観によるわけか




詩形式とはなにか



私は若い頃散文形式選択者であり、今でも散文形式を使いながら思考するほうが、自分にとっての思考としてはより精確なものになると思っている。

詩形式には今も馴染みが薄い。

にもかかわらず詩形式を利用してみるのは、精妙に思考しようとしない場合に、社会的に拠点となりうる一人称単数形の主体を設定しつつも、そこからなんらのメッセージも発しようとしない言語表現を試みてみようとするためである。
というのも、詩形式は、知的に怠惰な盲信からなる自撮り主語からのメッセージを、ただちに分解し、散乱させていく形式だからである。
反メッセージと印象の即座の燦爛化とを狙って言語配列をする時には、詩形式は散文よりも効果的である。散文は時系列の情報連鎖方式であるが、詩形式は行ごとに連鎖は断たれており、さらには一語ごとに、より厳しくは、一字ごとに連鎖は断たれている。散文のみを読み慣れた者が詩形式を読む時に呼吸困難のような感覚に陥るのは、むしろ、あちこちに設けられた連鎖の断絶を敏感に感じ取るからだろう。

詩形式とはなにか。
基本的にあらゆる自由を許容するとはいえ、あえて散文とは違う部分を強調してみれば、意味やリズムの絶えざる断絶の仕組まれた単語並べであり、非常に多くの場合、行数は数十行以下が(あたかも日本国民の間で法的強制もなしに実現される集団的忖度・自粛などの横並び現象のように)要請され、各行の字数は文庫本の一行に入る程度の数が要請される。インターネットが普及して、各行の要請文字数は変化したが、スマートフォンの普及と相まって、各行の文字数は20字以下が求められるようになってきた。
となれば、五言絶句や五言律詩ならぬ二〇言二十行や二〇言三十行ほどがだんだんと主流になっていく可能性がある。もちろん、一〇言七行や八言九行などもありうるわけで、二〇世紀後半に多少の隆盛を見た字数や行数の過剰さは、スマートフォンでの見やすさという物理的要請から、必然的に衰退していくと予想しておいたほうがよい。
形式的自由の飽くなき追求などということは、基本姿勢としてはもちろん許容され、そればかりか一部では賞讃さえされ続けるであろうが、詩歌好きの中でさえも、20世紀の一時期の古風な習俗と見られることになっていく可能性のほうが大きい。長いもの、整理仕切れていないものは、適切な編集能力とプレゼン能力こそ詩人に求められる最大の才能と目されるようになる21世紀にあっては、「やはり、古いね…」のひと言で見限られるようになるだろう。

そうして、内容的には、詩形式は配電盤であるべきである。たくさんの電線がそこに接続されているが、それら電線の先にあるべき多様なものはそこには全くない。ないが、多様なものすべてにそこで繋がっている。各単語はひとつひとつが複層概念や複層観念であり、それらの層のあいだを電流は行き来し、各概念や観念の間をも行き来し続けて、瞬間事に違うイメージや意味作用を醸成し続ける。最終的なイメージや意味生成や総体というものは存在しない。存在したと見えても、すぐに次の総体やイメージや意味生成に移行し続けるという意味で、存在しないのである。




古すぎる装置

 

陥りやすいのは
いつも
私―もの
私―言葉
私―制度
私―システム
私―偶発事
などの問題設定である
内包や融合、あるいはすべてを「私」と強制的に呼ぶ
など
してみるほうが
結果はよい

「私」以外のものと断絶を作る「私」は
すでに
古過ぎる装置である




なにごとかを語っていると思い込んでいる盲人たちのなかで



観察していると、なにかを語る人にとって重要なのはとにかく単語を並べるということで、じつは誰にとっても、テーマはどうでもよいのがわかってくる。
主体は人の側にではなく、どこまでも言葉の側にあるのであり、どのようなテーマやレトリックに乗るのでもよいから、言葉はなんとしてでも人に配列され、口から唾液飛沫とともに発音されたり、細かい線や曲線から成る文字によって書き付けられたりしようとする。そうして絶えざる感染を遂げていこうとするのだ。ウィリアム・バロウズが言葉を宇宙から来襲したウイルスだと断じたのは宜なるかなである。
ルイス・キャロルが「問題は言葉と俺とどっちが主人かってことだ」とハンプティ・ダンプティに言わせたのは、まさに至当と言わざるを得ない。もちろん、言葉が主人であるという結論はキャロルにおいて出ていたわけだが、言い切ってしまえばアリスの冒険はそこで終了、というより溶解してしまうので、明かさなかったのである。
なぜ、言葉が主人か? あまりに簡単なことだ。仮にハンプティ・ダンプティが「主人は俺だ」と言ってみたとしよう。「俺」はもちろん言葉であり、さらに言えば、言葉でない「俺」は存在しない。「主人は言葉だ」と言っても、もちろん、「言葉」は言葉である。




ユウボシミドリチョウ



水の流れがずいぶん弱くなるところがあって
このユウボシミドリチョウは
そこに
尾の先をつんつん付け
卵を生み落すらしいのです

らしいのです
という
あいまいな言い方をせざるをえないのは
水のなかに入ったはずの卵が
まったく見えず
薬品で染めて検出しようとしても
これまで誰も
成功したことがないからなのです

しかし
生み落しているのは確実だと思われます
というのも
かならず翌年には
その一帯の宙に
ユウボシミドリチョウがたくさん舞いはじめるのですから
ほかの産卵行為は観察されず
べつの場所で幼虫が見つかるわけでもなく
どうやら
産卵されたあたりの水中で越冬し
やはり不可視の幼虫生活を送り
成虫になるときだけ可視のすがたとなって
宙に舞うらしいのです



完全なフィクションへの入り口として



わたしは実生活では
わたしという一人称をまったく使用しない
なのに
自由詩形式では使う
完全なフィクションへの入り口として
まったく使わない「わたし」は絶好の裂け目と思うから

とにかく
どのようなものであれ
単語を配列していく形式に
騙されるなということ

空間への時系列的配列
すなわち
おしゃべりという形式の場合でさえ