2023年9月26日火曜日

ほんのちいさな出来事でも

 

 

 

ほんのちいさな出来事でも

どこから見るか

どことどこを

クローズアップし

どこは削除し

 

そうすることで

大小説にもなれば

ひと晩の楽しみ程度の

火曜サスペンス劇場にもなれば

走り書きのような

短い詩編にもなりうる

 

どこから見るか

どことどこを

クローズアップし

どこは削除し

 

それさえ

奇跡のように

うまくできれば

むりのない

入り込みやすい語り口でも

深く複雑な

人間たちの闇とともに

雲間の切れ目の

蒼空のような

地上で望みうる唯一の希望も

描き出すことができる

 

ほんのちいさな出来事でも

 





ああ いいものを見た

 

 

いつも通る道を

ちょっと

かえて

よく知らない細い通りを行ったら

ツユクサが

群生しているところがあって

ああ

いいものを見た

 

もうちょっと行くと

エノコログサの

群れて生えているところもあって

ああ

いいものを見た

 

いつも通る道の鉄柵には

ヤブガラシが

もういっぱいに繁茂していて

緑だったり

オレンジだったりする

あの蕾の色のまざりぐあいが

見れば

見るほど

おもしろみのある

けっこうな

かわいさだ

 






たった数人

 


 

詩歌を書くひとたちと

つき合いが

けっこう

あった時期もある

 

痛々しかった

 

じぶんが書くものが

すぐに

しっかり

読まれるのを望んでいるひとが

ほんとに多かった

 

痛々しかった

 

すぐに

しっかり

ひとに読まれるのなど

望んだりしたら

じぶんが書きたいことを

じぶんが好きなように

さらには

じぶんの好き嫌いもはるかに超越した

じぶんにもわからないもの

としての詩歌など

とてもではないが

書き続けられるものではない

 

だれか

ひとりでも

他人が書けるようなものを書くのなら

詩歌に価値はないが

そういう詩歌は

だれ

ひとり

共感も理解もしてくれない

ものになる

可能性が

ひじょうに高い

 

詩歌は

共感や理解をしてくれる

たった数人にむけて

だけ

つねに

書かれている

 

たった数人にむけて

 

しかも

数千年の長い歳月のなかでの

たった数人

 

じぶんが書くものが

すぐに

しっかり

読まれるのを望んでいるひとは

青年期から中年期に

移るにつれて

書かなくなってゆき

中年期から老年期に入る頃に

かならず

まったく

書かなくなる

 

人生

いろいろ


だが


中年期から老年期にこそ

さらには

老年期から超老年期にこそ

書くべきこと

書いてもらいたいことが

ほんとうは

いっぱいになる

若い頃のへんな気負いや

目立ちたがりも消えて

その頃には

なにを言おうと

いい旨みがことばのはしばしに

にじみ出す

老馬老豚老牛老鶏からでも

味のある

出汁が出てくる

 

書けよ!

 

書き続けろよ!

 

老いびとよ!

 

老いさらばえた人びとよ!







覚醒時の活動もまた死である

 

 

眠りは死である

生きているという経験をしたいのなら

眠ってはいけない

 

こんなことを言えば

健康学や

医学の見地からは

もちろん愚かにしか見えない

 

眠りは健康を支える基盤であり

覚醒時の活動パフォーマンスのレベルを高める

必須の要素だから

 

しかし

生まれて成長した人間が生きていることの

窮極の意義を

巷に溢れるチープな人生価値論の説くように

もし地上での活動経験や

一社会での地位や財の獲得や

動物のような生殖活動や

趣味や趣向への没入などに見出すならば

眠っている時間は必要悪の損失時間ということになるので

全力を尽くして

可能なかぎり削っていかないといけない

という理屈に

どうしても至っていく

 

眠りを

それ自体での固有の意義ある経験として捉えるためには

社会的活動だけでなく

地上での生存や存在自体にこそ

最重要の意義がある

という価値観に転換していかないといけない

 

ただ在る

意識がなくても在る

肉体的に呼吸をしている

血液が流れており

さまざまな生体反応が起こり続けている

それだけで価値がある

 

そういう見方や

価値観の定め方を全的に受け入れないと

眠りの価値は

根本からは認められない

 

そういう価値観が定まれば

意識を失って寝たきりになっているひとの生きようの

価値なども

しっかり定まってくる

認知症が進んで

じぶんがだれかもわからなくなったひとの存在も

それだけで

価値がある

なってくる

 

だから

逆説的に

眠りは死である

言っておきたくなるのだ

この偏狭な人界では

 

逆説を

進めておこう

覚醒時の活動もまた死である






2023年9月25日月曜日

今夜はおはなしやものがたり

 

 

スーパーマーケットから

夜なか

帰ってくるとき

 

スズカケの木の

枯れてきた葉っぱのどこかで

まあ

ほんとうにいい声で

秋の虫が

ころころ りんりん

ころころ りんりん

鳴いていました

 

鈴をころがすように

とか

玉をころがすように

とか

虫のいい音を

言ってみたりしますが

ほんとうに

そんなふうに言いたい声で

ころころ りんりん

ころころ りんりん

鳴いていました

 

足を止めて

しばらく聞いていたくなるような…

といった表現も

おはなしやものがたりでは

目にします

 

よし

おはなしやものがたりのように

今夜のこの機会を

してしまおう

 

そう思って

ほんとうに足を止めて

しばらく

聞き入ってみました

 

ころころ りんりん

ころころ りんりん

 

ころころ りんりん

ころころ りんりん

 

なので

おはなしやものがたりのように

ほんとうに

なってしまった

今夜です

 

ほんとうに

今夜は

おはなしやものがたり

 

そうして

末永く

しあわせに暮らしました

とさ






こんな呼びかけがあったらいいのに

 

 

 

こんな呼びかけがあったらいいのに

という

呼びかけのなかでも

いちばんの

呼びかけのひとつは

 

さあ

9月も

もう終わりに近くなりました

 

いま

お住まいのあたりで

いちばん美しい花はなんですか?

いちばんかわいい花はなんですか?

いちばん色のあざやかな花はなんですか?

いちばん変わっている花はなんですか?

 

というような

呼びかけ

 

全世界のいろいろなところの人たちが

写真やみじかい動画で

これらの質問に答えてくれたら

花いっぱいの

秋の地球のほんとうの雰囲気が

もうちょっと

分かちあえるのだけど

 

じぶんが住んでいないところの

9月の花々も

こころのなかでは

じぶんのものに

できるのだけれども

 

じぶんが住んでいるところの

9月の花々も

世界じゅうの人たちのこころに

共有して

もらえるのだけれども

 

 




2023年9月24日日曜日

ある大学の教員室に居たら


 

 

ある大学の教員室に居たら

授業に出席してこない学生たちに手を焼いた

(大学生相手だというのに)

漢字や読解を教えたりする国語の先生が

言っていた

 

バイトで授業に来れないのは

仕事があるから来れない

と学生は言うんです

でも

授業に出席するのも

学生には仕事のはずではないか?

どうしてバイトという仕事には行って

授業という仕事には出ないんだ?

おかしいではないか?

そう言い聞かせました

 

馬鹿だなあ

この先生

思った

 

授業に来てもらいたくて

学生を授業に来させるような理屈を言いたいのはわかるが

小学生相手に言うわけでもなし

「授業に出る」のが「仕事」であるはずはないだろう

古い言い方で「本分」と言うとか

学生という立場にある者がなすべきこと

と言ってみるとか

そういうのならわかるが

「授業に出る」ことは「仕事」ではない

その立場にある者がしなければならないこととして

「授業に出る」ことと「仕事」とのあいだの

同構造のようなものを抽出して言ってみたいのだろうが

考えれば考えるほど

このふたつのあいだには大きな相違がある

 

そもそも

「授業に出る」ためには

高額な授業料をあらかじめ学生側から支払ってある

学生たちは「授業に出る」権利を買ってある

買ってあるものを有効に使おうが

使わないでおこうが

それは学生たちの勝手

もちろん

あらかじめ払ってある授業料では

単位取得権までは購入できてないので

「授業に出る」ことや試験などの評価にパスすることなしでは

単位はもらえない可能性もある

そこの部分では教員側の権利が行使される

 

「授業に出る」ということをめぐって

教員側が学生に言うべきことは

あらかじめ払っている高額な授業料に見合った権利行使をしなさい

それはけっして「仕事」なんかではないけれど

せっかく買ってある権利なのだし

支払った財を然るべくしっかりと運用することにしなさい

というようなことのはずだ

 

バイトという「仕事」は

「授業に出る」という行為とはまったく違う

バイトの「仕事」に行くという権利は

あらかじめこちらから支払いをして購入したものではない

「仕事」に行くのは労働法的に契約されたことであり

結んだ契約による義務の発生を受け入れたことになり

契約を守るためには「仕事」に行かなければならない

「仕事」に行くという契約を守り

然るべき「仕事」をすれば賃金がこちらに支払われる

購入という言葉にこだわれば

むしろ労働力を購入するのは雇い主側ということにもなる

 

バイトという「仕事」に行く

という行為は

ほかにもいかようにも分析や考察を広げられる行為で

授業料のあらかじめの支払いによって買われた権利を行使しての

「授業に出る」行為とは

みだりに比較されていいようなものではない

この国語の先生は

たぶん

マルクスもまったく読んでいないだろうし

その他の経済思想や

法律論なども読んだことがないだろうし

初期のマルクスが生成してくるベースのヘーゲル哲学や

その他のドイツ観念論や

もちろんホッブスやロックやルソーなども

フランス革命のイデオローグたちの

微細で複雑な政治思想も

読んだことがないのだろうなあ

と思わざるを得なかった

 

ろくな哲学的思弁を構築できない教師なら

学生たちにはたんに

「授業に出てこないと単位は上げられないよ」

とだけ言えばいいのである

調子に乗って

それ以上のヘンな理屈を言いはじめると

国語程度の論理構造から出たことのない連中は

かならず賢さを装ったバカ論理を作り出す

 

この大学の偏差値は

受験情報によれば3540である

 

商学部の偏差値は375

法学部の偏差値は40

新設の現代教養学部の偏差値は35だそうな

 

最低である

 

この大学については

話すべきことは無限にあり

いずれ

一大娯楽物語として

ながながと

語ろうと思っている

教員側や

運営側

理事側の内実を

あまりに

知りすぎているゆえに

 

ところが

おなじ大学でも

なぜか

わたしの法学部の教室には

2年生にして

日商簿記2級や行政書士試験に合格している学生がいたり

学士編入して医学部に行きたいとか

公認会計士を目指している

という者もいる

 

たいしたものである

 

法学部の偏差値は40だが

大学は奨学金をもらって

家に近いところに通い

(低位レベル校に行けば

並み以上の学力の学生は

奨学生になれるので

授業料の節約ができる)

身につける勉強は専門の学校や

大学外部のコースに通って学ぶ

というサバサバした考え方の学生たちも

じつは増えてきている

 

そういう学生たちは

偏差値3540の大学であっても

反応がとてもいいし

よく学んでいる

 

多種多様な

いろいろな意味で

日本の大学は

完全崩壊してきており

ならば

教える側も

学ぶ側も

大学の枠をぶっ壊したつき合い方をしたほうが

いい頃合いに

なってきている