2024年4月30日火曜日

黄帝と広成子

 

 

 

『荘子』外篇

「在宥篇第十一」のなかの話

 

 

天子の位に就いて十九年経った頃

黄帝は

教えを乞うべく

空同山にいた広成子に会いに行った

 

広成子は

至上の道を体得している

と言われていた

 

しかし

広成子は

黄帝をうすっぺらな口先だけの者と難じ

なにも教えなかった

 

拒否された黄帝は

天下の支配を棄てて

静かな庵に

白い茅を敷いて

三ヶ月

閑居した

 

そうして

ふたたび広成子に会いに行き

いかに身を修めれば長生きができるかと

尋ねた

 

この質問は

広成子の気に入ったらしい

 

広成子が答えた

 

「では、そなたに至上の道を説いて聞かせるとしよう。

至上の道の精髄は奥深くてほの暗く

上の道の極致はおぼろでひっそりとしている。

目と耳のはたらきを閉ざして

神を静かに保っていれば

肉体もおのずと正常になろう。

もし静かで清らかな境地を保って

肉体を疲弊させず

精気を動揺させなければ

それで長生きできるだろう。

目で何も見ず

耳で何も聞かず

心で何も感知しなければ

そなたの精神は肉体を守ろうとし

肉体はそこで長生きできるだろう。

内なる心の平静に留意し

なる事物への関心を閉ざすのだ。

知識の多さは滅びのもととなる。

わしはそなたのために太陽の彼方にまで昇り

かの陽の気の根源にまで行きつこう。

そなたのために深く暗い地底の門に入り

かの陰の気の根源にまで行きつこう。

天地にはそれぞれの機能があり

陰陽にはそれぞれの収蔵力がある。

つつしんでそなたの身を守ってゆけば
万物はおのがじし繁栄するだろう。

わしは唯一の道を守りつつ調和に身を処してきた。

だからわが身を修めること千二百歳にして

わが肉体は少しの衰えも見せないのだ」。

 

広成子は

さらに言った

 

「かの至上の道は窮まりないのに

人々はみな終わりがあると思っている。

かの至上の道ははかりしれないの

人々はみな限りがあると思っている。

ただわしのこの道を体得した者が

上は天の王者となり

下は地の王者となるのだ。

わしのこの道を体得できなければ

では日月の光を仰ぐだけで

下では朽ちはて土くれとなるばかりだ。

今もろもろの存在は

みな土から生じて土に返る。

だからわしはそなたを去って

窮みなき門に入り

果てしなき世界に遊ぶことにしたい。

わしは日月と輝きを均しくし

地と生命を共にする。

わしを前にして立てば

至道と一体となり

わしから遠ざかれば

闇に閉ざされるだろう。

人々はことごとく死滅しても

わし一人は生きながらえるだろう」。

広成子は

無為自然の道を体得した寓意的な人物で

老子のことともされる

 

『史記』五帝本紀には

「黄帝西のかた空同に至る」とあり

黄帝が空同山に至ったという説話が

あったことがわかる

 

ともあれ

広成子の教えでは

「目と耳のはたらきを閉ざして

神を静かに保」つことや

「目で何も見ず

耳で何も聞かず

心で何も感知しな」いことに

もっとも重要なポイントがある

社会ばかりか

自然現象もふくめて

地上に展開されるあらゆる現象を棄てよ

ということで

ここまで明瞭に

『荘子』外篇で語られているのが

おもしろい

 

 

 



 

*『荘子』外篇「在宥篇第十一」の訳は、ちくま学芸文庫(2013)の福永光司と興膳宏の訳をいくらか変えて用いた。

 





2024年4月29日月曜日

ろくに読みもしない見栄っぱり


 

 

何はともあれ本を買え

         アーノルド・ベネット 『文学趣味』

 

 

 

 

興味本位で本をたくさん買うのに

ろくに

読みもしない見栄っぱり

 

という人種がいて

わたくしもその末席を汚し続けておるわけだが

そういうバカにも

存外

大きな存在価値がある

古書店に行くたびに思うのである

 

古本を買うとなれば

なるべく

きれいな状態の本を買いたい

やはり

思う

 

よく読んであって

線が引いてあり

囲んであったり

メモがあったりするのを見ると

かつての所有者は

しっかり読んでいてたいしたものだ

と感心するものの

いざ自分がこの本を買うかどうか

となると

ろくに読みもしないで

ほぼ真っさらな状態のままに置かれた

読書家のふりをするばかりだった

怠けものの所有者が所蔵していたほうを

やはり

選んでしまうことになる

 

これぞ

興味本位で本をたくさん買うのに

ろくに

読みもしない見栄っぱり

の効用

とでもいうべきものであって

まさに

こういう人士がたくさんいてくれるおかげで

古書市場は

一定の清潔感を保っている

と言えよう

 

書籍的浪費家や

読書的見栄っぱりあっての

古書文化

というものではないか

 


 

わたしはわたしに

 

 


没頭とは、頭脳が最大限に機能し、時間の観念がなくなり、

幸福感が浸透していく変性意識状態であると、

最新の調査が結論づけています。

調査はさらに、人はこの状態にあると、

努力を努力と感じない効率よい機能状態にあることを報告しています。

ある研究チームはこれを、「流れている状態」と呼んでます。

ダニエル・ゴールマン(ジャーナリスト・著述家)

 

 

 

 

テレビで

能の「忠度」をやっていたので

ものを食べながら

なんとなしに見ていたら

吸い込まれるように

見続けてしまった

 

能は

日本文学のそこまでの時代の

総決算でもあれば

華のような日本詩語の総覧でもあって

これあってこそ

その後の日本文学は

俳諧や戯作などのべつの展開を

豊かに花咲かせていくことができた

 

能は好きだが

実際に見に行くと

おもしろいのに

どうしても眠くなってしまう

あの声調やリズムが

たぶん

独特の電磁波を発生させるものと

思う

 

それに

今日日は

なんだかずいぶんと

チケット代が高い

 

どうせ眠ってしまうしなあ

と思うと

あの額を出すのは

もったいない気がしてしまう

 

もう二十年ほど前から

能はテキストを読むのこそ

いちばん楽しく

いちばん経済的で

いちばん楽だと

結論している

 

能の通ぶって偉がろうとかは

まったく

思っていないので

これで

かまわない

 

そのかわり

よさそうなテキストは

けっこうわがままに

買い集める

 

註が詳しくて

読みやすく

わかりやすい版がいいのだが

そういう本は分厚くて

重くて

嵩張るので

ちょっと出かける時に

ポケットに入れていくような時は

古い岩波文庫や

さらに古い有朋堂文庫などがいいが

これらには

註がまったくないので

逆にずいぶんと

読解に集中させられたりする

 

それにしても

能などは

二十一代集の読書のように

ブラックホールのような魅力があって

ほかの読書や

ものごとへの興味を消失させられてしまう

これらのみずうみの淵で

ある程度以上の深みに入り込めば

しばらくは

興味の核が水から上がって来れなくなる

謡曲に深入りすれば

現代語の読書にはまったく興味が失せ

二十一代集の淵から潜れば

現代語の詩歌や

外国語の詩歌などには

見向きする気がまったく失せてしまう

そんなふうにして

半年や八ヶ月ほどを

ほかの読書を一切せずに過ごした年月も

おそらく

十年ほどはあったのでは

ないか

 

あまりに集中しすぎて

まさに寝食を忘れるごとくに

それ以外のことを完全に忘れてしまうたちなので

逆に

集中ということを

必死にしないように努めてきた

激しい逆噴射の人生であった

 

いろいろなことをバランスよくこなして

誰よりも役人ふうに

常識人ふうに

生活も仕事も雑事も

すべて同時並行に進めてきた生涯だったが

本性はその真逆だった

よくピストルで

脳髄を撃ち抜いたりせずに耐えてこられたものと思う

 

でも

そろそろ

もう

いいよ

 

そろそろ

寝食を忘れ

現代語を忘れて

ひとつことに集中して令和に戻ってこなくなっても

いいよ

 

わたしは

わたしに

言いはじめている