2012年6月30日土曜日

遅くしてみる



ゆっくりと
もっとゆっくりと
日頃の動作を遅くしてみる

それだけで解決していくことが
心のことには
案外と多い

ゆっくり
ていねいに
お茶碗をしまってみる
流しまわりを
拭いてみる

そんなことでこそ
心は
ほんとうに生き返ってくる



2012年6月29日金曜日

まだ昼前



故人の写真のわきに
大輪の白薔薇
うしろに大きな窓
見えている
エメラルドの海

今日は舟が出ていない

まだ昼前
これから出ていく舟も
あるだろう

夕ぐれには
鮮やかに西空が染まる

戻ってくる舟の
黒いシルエットは
ゆっくり
大きくなってくるだろう

点在する家や
港に
オレンジのあかりが
灯るだろう

木々の繁みや
山は
真っ黒な静もりと
なるだろう



2012年6月28日木曜日

眠ろうかという深更、…



眠ろうかという深更、紅茶が飲みたくなる
静まった台所に立って湯をわかし
どの茶葉にするか迷い、
けっきょく
淹れるのに簡単なティーバッグを選んだりする
カップにそのまま淹れるか
ポットに少し大目に淹れるか、また迷い
カップに淹れることにするが
どのカップにするか、また迷う

ようやく飲む時になって
戸外のあまりの音のなさが気になる
戸を開けてヴェランダに出てみる
風もなく、もやっとした見えない空気が蟠っていて
紅茶を淹れる時に立った蒸気のよう

熱い紅茶の入ったカップを持ち
人間はふしぎな所業をするものだと思い直す
手にしたカップの中には
今必要なあらゆる大事なものがあるような気もするが
あらゆる大事なものの
そんなすべてを
ゆっくり
ゆっくり
からだの中に
滴らせていこうとする


2012年6月27日水曜日

台風のしらせが新鮮に窓ガラスに触れてきている…


             
台風のしらせが新鮮に窓ガラスに触れてきている…
口調を変えねばならないだろう、私の心の若葉に間を与えるために…

風景の横揺れが繁くなってはまた弱くなりまた繁くなって古墓に
まだ小さい若いカマキリが一匹立ち止まっている

卯の花、さつさつと咲いて、いる、家沿いの径に
自転車で来て、どこへいったのか、あの小柄な郵便屋さん…

紫陽花が花盛りというのに、
紫陽花が花盛りというのに、

カラスが困り顔に電柱の上に止まったまま、東のほうを見ている…
遠い葬式が気になるかい?それとも結婚式かい?

台風の香りでも嗅いでいるのか、窓ガラスも、カラスも、
藤の花も長い種になって、微風に揺れている。水、表面の皺のような漣、

ひとつ、紫陽花、買おうかな、どこかの花屋さんで。色の濃い
大き過ぎない鉢、あるかしら、…キャラメル、…歩いているんだよ…

翳が夏になだれ入る… 墓も、町への道標も、みんな、また、夏だ、…
まだ動かないカマキリ。親はどうした? 親なきカマキリの若緑の鎌よ

心の花は、カラスウリの、花。野生のレース縫いの、白い網の宇宙よ
まだ咲かないなぁ、いつ見られるかなぁ、鮒の煮つけ、ふいに食べたい…

ひとり、私、生きのびて…、もう長いこと居る四季の郷…、躰の
翳が地に延び、風が立ち、人々など、もう、すっかり忘れているよ、…

躰までは、まだ、変えなくてもいい?…、手の甲の肌が今日はきれい、
この肌の艶の中にわたしの魂の小さな卵が棲む、…たぶん、若草色して

若草色して、人生にもう一度潜ろうか、透明なところをよく選んで進み、
卵を守りながら、…薔薇の花々の終わりの、ふいの静けさのように

…花々の季節、次々と続き、また花、また次の花、どちらのほうへ
生きていく?、死んでいく?、衰えは笹色の小舟、漣にちょっと揺れて、

笹の葉さらさら、季節、また来る。躰、笹の葉して、でも、変えなくて、
きれいな色したおいしい飲み物を飲んで、クラインブルーの夕闇待って…

まだカラスが困り顔に、電柱の上に止まったまま、東のほうを見ている…
道路標識が一本立っている夏待つ径の坂、私の心の、葉の繁りのほうを、

見ていて、見ていてから、ゆっくり向き変えて、歩み出す、軽い翳の
小さな卵の保ち手。輪郭の曖昧な、正しい、夏への向かい…



2012年6月26日火曜日

ことしの夏は楽しくなる



 
人生は少女たちのもの
わたしは紅茶をまだ飲んでる
スカートはいた
スカイツリーを思い描きながら
白いテラスに
もうちょっといる

白いスーツで
来るべきだったかな
ネクタイまで白いのを結んで
ようやく手に入れた
クラインブルーの瓶を
大事に手に握って

ASAKUSAのほうが
通りがよくなっていくかな
浅草っ子がどう言っても
コロモの厚い天ぷらはごめんだ
ライチ酒が気に入ってるから
小舟で漕ぎ出して贅沢な宴

もう少女たちは足りている
グラマーないい女がいつも足りない
目じりがエッフェル塔までのびて
ウクライナの唇、コロンビアの乳首
ルーマニアの頬骨とマリの頭骨
店で飲むとうまいビールが少ない

歳をとっていくという嘘
年季の入ったいいインク壺さえあれば
たいていのことは解決する
温かい幽霊がドーナツ屋に並んで
ネオンの点滅を受けてやさしくなってきたから
ことしの夏は楽しくなる、きっと



2012年6月25日月曜日

アントニオイノチ



アントキノイノチ
…そういう題名の映画だったのか

広告なんて
いい加減にしか見ないので
はじめてちゃんと題名を読んでみて
わかった

ずっと
アントニオイノチ
と思っていた

2012年6月24日日曜日

超越論的人生論


やりたいことをおやりよ。そうすればきみは王さま
ボブ・ディラン
 


たぶん
誰にもこの書きつけは読まれないだろうが
それでも記しておきたい

死はない
体が失われても
意識はそのまま続く
それどころか
もっと拡張された状態で意識は続く

そうなると
簡単になるのは
どう生きるかということ
問題はない
興味があって
それをやろうとすると不思議と元気が出てくる
そんなことをやり続ければいい
やり続ければ能力が増す
意識がひろがる
死はないのだから無駄はない
物のかたちでは持ち越せないが
そこはそれ
色即是空
物として手もとに来たものは
すべて意識として持っていける

死はない

だとすれば
この瞬間から体の失われるまで
一秒たりとも
ますます
無駄にすべきではない


2012年6月23日土曜日

妻の死んだ後、ひどく悲しんで作った長歌二首と短歌 [柿本人麻呂の歌の翻案]

[柿本朝臣人麻呂「妻死にし後に泣血哀慟して作る歌」の翻案
      万葉集巻第二、挽歌、207番から212番の歌]





軽の市
いとしいあの娘がいるところ
通っていって
何度でも
会いたかったが
たびたび行けば
人目にはつくし
知られるし
やがては会おうと
未来を頼み
岩囲いされた淵さながら
ひっそり秘めて
恋うていたのに――

渡る陽の
暮れゆくように
照る月の
雲隠れするように
沖の藻の
ように靡いて
親しくも
纏わりついた
あの娘
もみじ葉の落ちゆくように
逝ったよと
使いの者が言うのだよ

言葉も出ず
動きもならず
知らせにも
納得もいかず
わが恋の千の一つも
慰めようと
走り出て行く
軽の市
あの娘がいつも
外に出て
立っていた市
そこに立ち
耳を澄ませば
畝傍山に
啼く鳥の声も
あの娘の声も
ともに聞こえず
道を行く
人ひとりさえ
あの娘には
似ても似つかず
しかたなく
名を呼んで
あの娘を呼んで
いつまでも
袖を振り振りし続けた


短歌二首

秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
(秋山の黄葉の茂みに惑い行ってしまったあの娘、探したいけれど、ああ、その山の道がわからない)

黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
(黄葉の散る頃、よその人へ愛の使いを届ける者が通っていくのを見ると思い出すのだ、会っていたあの頃を)





いつまでも
世にあるものと疑わず
あの娘が
この世にあった頃
ふたりして
とりかざし見た
槻の木は
突き出た池の堤にあって
あちこちの
枝には春の葉が茂り
その茂るさまさながらに
ふかく思った
大事な娘
ずいぶんと
頼りにもしていた娘

世の中の
むなしさ
無常のさだめには
しかし背けず
陽炎の
燃えたつ荒野に
純白の領巾(ひれ)に被われ
鳥のように
朝はやく発ち
夕暮れの
入り日さながら
隠れ去り

形見に残る幼子が
慕って泣けば
与えてやれる
ものさえもなく
男というに
子を抱え
かつてふたり寝た
離れ屋に
昼はうつうつ寂しんで
夜は嘆息しつつ明かし
歎きつづけ
しかたもなしに
慕っても
逢えるわけでもないものを

大鳥の羽の
合わさるように見える
山にあの娘がいるのだと
人に言われて
岩よじ登り
難儀を忍んで来てみたが
生きていた
あの娘の姿かたちなど
ほのかにも見えず
このように
歌うほかなき
わが思い


短歌二首

去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども(あひ)見し妹はいや(とし)(さか)
(去年見た秋の月はあいかわらず照っているが、これをいっしょに見ていたあの娘は年々離れていってしまう…)

(ふすま)()引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
[天理市南の]衾田の地の引手の山に、あの娘は本当に生きているというのか?山道をたどり続けているが、そんな気配さえないではないか…)





◆短歌を伴った人麻呂の有名な長歌を、戯れに自由詩ふうの分かち書きでおおよその意味あいで訳してみたら、ずいぶん楽しかった。現代の新体詩ふう、自由詩ふうのかたちが、じつは万葉集時代の長歌に、なかなか合っているではないか、と愉しい驚きがあった。

◆万葉集の長歌に現代人が接する場合、どうしても注釈本や現代語訳を介してということになるが、ほとんどの訳は、原文そのものを模した文章ふうの形態で提供されている。読めば内容はわかるが、あれでは、もともとの長歌にあったような心の動きや揺れがまったく伝わらない。それが、自由詩ふうに書いてみると、大きく変わる。作歌の際の人麻呂の心に、いくらかでも、はじめて触れえたようだった。

◆こういう翻案をしてみてよくわかるのは、人麻呂の言葉選びに、じつは、けっこう遊びがある、無駄もある、そうしながら、長歌をなんとか支えている、ということだ。万葉集の専門家からは一笑に付されるだろうか。しかし、みずから自由詩を数千も書かないで古典詩歌に接しようとする人びとを、やはり私は一笑に付す。もとより、詩歌は道楽の道である。読み書き、解釈創作は、両輪伴っていなければ、そもそもお話にならない。

◆現代に人麻呂がいたら、という仮定は無意味かもしれないが、その場合に確実なのは、まず長歌など作らなかっただろうということだ。絶対に自由詩で書いただろう。ここに文芸態度の基本がある。ソネットで書いた19世紀までの詩人の詩を、現代日本語でソネットで訳せばいいというものではない。韻を無視した自由詩か、散文詩のほうが訳の形式には適しているという場合もある。

◆むかし、奈良や飛鳥に異様に惹きつけられて旅を重ねていた頃、人麻呂が馴染んだ軽の市のあたりをさまよったことも何度かあった。このあたりが人麻呂の、と思いながら、夕闇の中で道にまよい、時代を異にしたかのような奇妙な意識状態に陥って、闇の中をさらにさまよったこともあった。誰もが感じるように、飛鳥あたりの土地には魔力がある。今回の戯れ翻案の試みから得られた人麻呂の口吻を胸に、またふたたびの、長い飛鳥の旅に出たいとも思う。

◆短歌の書き下しテキストは、伊藤博氏訳注の角川文庫版『万葉集 一』(2009)によった。長くなるため、長歌の原文は掲載しなかったが、各種の書き下しテキストを参照されたい。


2012年6月22日金曜日

どこもかしこも愛愛愛



 
愛ということばをふんだんに発音し続ける人たちがいて
いつもいつもほんとうに心底驚かされてしまう
愛はなによりも大事だとその人たちはいうのだが
あんなにぺらぺらぺらぺら愛を発音し続けていて
それでも擦り切れないんだからやっぱり愛はすごいものだと思わされる
だれでも経験を重ねたり歳をとったりしてくるとわかるが
なかなか擦り切れない耐久性のあるものはやっぱりすごいものだ
愛はどうやらダントツに持ちがよく耐久性に富んでいるらしく
いまだに日々きびしく鍛えられ続けているらしい
ほらテレビをつければ愛
ほらポップスを聴き出せば愛
ほら男女が出会えば愛
ほら男男や女女が出会っても愛
ほら最新機器やチョコレートにも愛
どこもかしこも愛愛愛

午後にもきみは
すっかり孤絶の底の栓を抜いて死んでしまおうと思ってさえいるのに

2012年6月21日木曜日

もう少し眠らないでいる



とくに書きたいこともない夜更け
二つ三つ
ことばを記そうとし始める時がいい

うちの中は静まりかえって
部屋から廊下へのドアは開けたままにしてある
廊下の灯りは消してある
そこまで来ている闇が見えている

ペンを持って紙に向かう場合もあるが
たいていはパソコンに向かう
部屋の灯りは点けてあるが
ときどき消してみたくなる

消してみる
すると電灯の音が消え
見えない波の打ち寄せも消えて
深い海の底で手もとだけを照らし
作業をしているようになる
その闇に驚く
というより
電灯を消せばこんなに暗いところに
平気でひとりいたことの異様さにむしろ驚く

灯りとは奇妙なもの
点ければ明るい
消せば暗い
あたりまえのようでも
ON・OFFでの一瞬のこの変貌
太陽がなくなったら
もっと深い無限の闇だけになり
なにもかわらないのにすべてが消えたも同然になる
墓の中もこうだろうか
火葬前の棺桶の中もこうか
明るいほうへ
光のほうへ
誰もが向かおうとして行き着く最後の場所は
底なしの闇か
超克の光があるだろうか

こんなことを書き記しながら
つい数分前まで思ってもいなかったこれらを
ちょっと読み直し
そろそろ
寝ようかな
眠ろうか
と思う

眠りは喜ばしい闇
心の灯りまですっかり消して
どこに落ちていくのか

落ちていった先で
また逢うのか
だれに?
だれが?
…と考えながら
まだ
寝ない
もう少し
眠らないでいる


2012年6月20日水曜日

雪のニューヨーク



雪のニューヨーク
雪のニューヨーク
雪のニューヨーク

ニューヨークなのに
      なにもビルがない
ニューヨーク

雪のニューヨーク
雪のニューヨーク
雪のニューヨーク

大通りを車で走り続けている
広い広い雪道
群れて遊ぶ子ども
転びそうに歩くカップル
ときどきすれ違う車、車、車

雪のニューヨーク
雪のニューヨーク
雪のニューヨーク

  ニューヨークなのに
大通りは雪だけの
  ニューヨーク

雪のニューヨーク
雪のニューヨーク
雪のニューヨーク

2012年6月19日火曜日

ふっと煙草が吸いたくなるね


しかし、もう私には大した望みもない。
織田作之助『アド・バルーン』



なにも楽しいことはないと
言えば言えるし
ときどき言うし
言うのは好きだが
言うのも飽きる

そんな時
ふっと
煙草が吸いたくなるね

むかしは
いつも持ってたな

べつに禁煙派じゃないが
好きでもないから
ほとんど吸わず
月に一、二本
吸うか吸わないか
そんな
冗談みたいな煙草飲みだったので
いつのまにか
買うのをやめたら
どうでもよくなっちゃった
やめちゃった

どうでもよくなっちゃった
やめちゃった
友だちも
けっこういるかな

ふっと
煙草
吸いたくなるね

どうせ吸わないけれど
ふっと

いったい
なにを吸いたいのだろう

なにを
ほんとうはしたいのだろう

いまだにわからないんですよ

人生の暮れ方

家路の駅の階段が
つらくて
上りたくないような時もある
そんな年齢というのに


2012年6月18日月曜日

湖は い、い、よ、お、



Mort à jamais ?
Proust : Du côté de chez Swann
(永遠に死んだのだろうか?
プルースト『スワン家のほうへ』)




最近疲れなくなって
眠くなくなって
もう
24時間フル稼働ですよ

思うようになった―

活動ってのは
すべて
疲れるための準備であったのだな
眠るための
助走であったのだな…

永遠の準備と
永遠の助走でしか
なくなってしまった生の上辺に
軽がると
埃か
笹舟のように浮いて

フル稼働ですよ
24時間
フル稼働なのですよ
もう

あめんぼのように

てん、てん、
てん、

狭くせまく動いて
さらに
益体もない
あるか
なきかの
活動を加えながら
失われた疲れと
眠りとを
慕って

よくわからない湖に
なっていく
わ、 た、 く、  し、

湖は
い、い、よ、お、

湖は
い、い、よ、お、