2016年5月23日月曜日

自我と自我が



けっきょく
どこまでいっても
自我と自我が折りあうことなど
ない

それでもぼくは
ずいぶんじぶんを黙らせて
きみらの自我のお話を聞いてきたものだが
もう
ほとほと飽きてしまった
あれはこうすべきだとか
そっちのほうが価値があるとか
いちばん大事なのはどれだとか
ぼくがいちいち
まったく違う思いを抱いていたのなど
気づきもしなかったのだろう

パチンと指をならせば
きみらの世界など消える
ぼくの同意と共感がきみらを支えてきたのに
はじめから
そんなものはなかったのだから
みんな
フリだったのだから

もうやめよう
ぼくは
いよいよ
ますます
参加しなくなる
幻想を抱えて行けると思うなら
行け
きみらといっしょに言ってみた
《ぼくら》なんて
まったくの演技だった

けっきょく
どこまでいっても
自我と自我が折りあうことなど
ない
協働なんてない
同一方向なんて一時的な印象
世界の統一理論はべつのところにある
全然べつの
やり方やあり方を探すしかない

絶望的
というわけではないんだ

だが…



ほんの短いあいだというのに



こうして
ぼくが
ここにいるのなど
ほんの短いあいだというのに
みんな
わかっていない

ぼくとは
あなたや
かれや
かのじょや
みんなのこと
こうしているのなど
ほんの短いあいだというのに
みんな
わかっていない

ぼくが
あなたの話に耳を傾けたり
冗談を返したり
眠そうなまなざしを向けたり
忙しそうにしていたり
そんなことは
ほんの短いあいだというのに
みんな
わかっていない

その短いあいだが
明日にはもう
終わってしまうというのに



(大事なものは)



ほんとうに
文字とは
言葉とは
ふしぎなもの

書けば書けてしまうし
しゃべればしゃべれてしまう
自他の目に見えたり
自他の耳に聞こえたり
自他の脳で理解されたり
わからないと思われたり

ほんとうに
文字とは
言葉とは
ふしぎなもの

そのふしぎのまわりを
時には中を
めぐりめぐって
ふしぎそのものにも
なったりしたようにも
なって

(でも大事なものはこんなところにはないんだ)

いつまでも
どうしたって
ひとりっきりなんだけれど

(そう、大事なものはこんなところにはないんだ)



《現代のものは現代に》



現代
大事に思わなくなって
もう長い

そこにくっついている人たち
くっついてだけ
生きている人たち
耳も
顔もむけなくなって
ちょっと
経つ

晴れたり曇ったりする
現代
とは思えない
現代
はそれをじぶんのものと見るみたいだけど
あれはどこにも
属さない

ぼくも
属さない
いいと感じる
《現代のものは現代に》
思いながら
分裂していくものや
剥がれ落ちていくものや
風に飛ばされるように
ヒューと
離れていってしまうものを
取りまとめようとは
しない

ぜんぶ散っていってしまった後に
まだ
《ぼく》なんて
発語するものがあったら
それこそ
《ぼく》だ

それ以外は
《ぼく》じゃないんだろうから
そもそも
どうでもよかったんだ



2016年5月6日金曜日

女の歩行が起こっている



女として歩いている
身体は男
しかし女として歩いている
いつもながらの河沿いの歩行
速く
速く
できるだけ速く

ジェンダーの問題はない
一切関わりはない
女性を男の身体に感じるのではない
ただ女になっている
今この歩行は女の歩行だと感じる
女として歩いている

足幅は広くしているが
股関節は小刻みにできるだけ速く動かし
足裏はブレずに正確に地面に落ちる
踝の関節は強くしなやかに速度を支え
腰も腹も整ったリズムに乗っている
男の歩行とは違う
女の歩行が起こっている

女として歩いている
身体は男
自分を女と思っていない
女になりたくもない
しかし女として歩いている
今この歩行は女の歩行だと感じる
女の歩行が起こっている

女として歩いている
いつもながらの河沿いの歩行
速く
速く
できるだけ速く



2016年5月5日木曜日

罰金五万円払われるんだぞぉ



何人も子供たちが
ゆっくり
ゆっくり
自転車で走っていく
にぎやかにしゃべりながら
しゃべくりちらかしながら

話題のひとつが耳に入ってきたが
自転車で道を走るとき
「一列になって走らないと
「罰金五万円なんだぞぉ
といった話
ひとりが大声でくり返すので
他の子が
「へえ
「ほんとかあ
などと言っている
「ほんとだぞぉ
「罰金五万円払われるんだぞぉ
とはじめの子が答えたものだから
「払われるのかぁ?
「払われるのはヘンだぞぉ
みんながわいわい言い出す

はじめの子は言い直そうとして
「払われるんじゃなくて…
「払われされる…じゃなくて
「払われさせられる…じゃなくて
「払わせられる、…かな?
「払わされる…だ!

たまには
必要かもね
日本人の子どもたちにも
にほん語の
会話練習



淡い優雅な色あいの部屋を



夕食後にずいぶん眠くなり
ちょっと休むつもりで
寝室に寝ころぶうち
一時間ほども寝てしまった
部屋は閉めていたが
となりの部屋は
明かりがつけっぱなしで
暗いこちら側へ
そのあかりが洩れていた

暗いはずのこちら側が
洩れ入ってくるあかりで
灰色っぽいような
うすみどりっぽいような
ふしぎな色あいになっている
まるで棺の置かれる
石室の中のようなぐあいで
今というこの時が
死んでしまった後でも
おかしくなさそうだと思う

それにしても
灰色っぽいような
うすみどりっぽいような
淡いなかなか優雅な色あい
しばらく見まわしていた
いつまでも見つめていたかった
だいぶ長く見ていたが
むこうの部屋のあかりも
つけっぱなしなのだし
そろそろ起きないといけないな
そろそろ生き返らないと
いけないかなと
淡い優雅な色あいの部屋を
おさらばすることにした


2016年5月3日火曜日

かみんぐあうと



犬はきらいじゃないが
犬を飼っている人は
どうも
ダメ
そんなことで
人を嫌っちゃいけない
とは思う
でも
どうも
ダメ

生理的に受けつけない
というのとは違うが
どうも
ダメ
空気的に受けつけない
気として受けつけない
なんだろうね
これ
努力はずいぶんしてきたし
だいたい
ひどい人種差別
しちゃいけないって
わかっているんだけど
ダメ

なんだろうね
これ
犬を飼った雰囲気が
その人にあるというだけで
ダメ
あゝ犬好きなんだなぁ
と感じたら
もう
ほんとうにダメ
その人をきらいにはならないし
その人の価値を認めないとか
存在を認めないとか
そんな
トンデモないこと
いたしませんが
ダメ
知らずに遠巻きにし
その人の話は右から左に抜かし
その人に関わる情報は
一瞬で識別してすっ飛ばすか
見えないように隠すか
してしまう
なんだろうね
これ

ネコは大丈夫で
むしろ
こちらのアンテナが
ぴんぴんと
立ちはじめる
ネコ派ではないつもりだけど
ネコびいきは
あまりにはっきりしていて
KKKならぬ
NyaNyaNyaのセクトの
会員じゃないのかって
じぶんで思うほど

とはいえ断じて
ネコ派ではないつもりだし
ネコを飼うなんて(さんざんやったので)
考えるだけでも
もう
いやなんだけど
アンテナだけは
ぴんぴん立ちはじめる
犬好きの人でも
なんとかつき合える人の場合
かならず
ネコ好きでもある人で
その人のネコ部分で
つき合っているのだニャァと
よォくわかる

ほんとうに
犬はきらいじゃないし
飼いたいなァと
せつなく見つめ続けた犬も
何匹もいるが
犬を飼っている人は
どうも
ダメ
そんなことで
人を嫌っちゃいけない
とは思う
でも
どうも
ダメ

どうしようもなく
ダメ



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忍耐力はあるほうだけれど
便利ではやいものを使う時には
まったく忍耐力がなくなる
だから円がクルクルまわって
ちょっとでも待たせる動画とか
数が多すぎる写真掲載とか
無用に長い記事なんかは
SNS上ではまったく見ない
まったく見なくなった
せっかくの忍耐力を使わされるべき
場所じゃないところで
人をながく待たせるなよ
何枚も写真を載せてくるなよ
800字程度に記事は纏めろよ
と思いながらすぐに閉じる
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この頃

 

次々ひらく花ばなに忙しくしながら

けれど
もう
花はいい
もう見なくてもいい
咲かなくてもいい
と心の奥ふかくで思ってもいて

なにも見ない
どこにも行かない
目も開かない
そんな
奥ふかくの思いを
じぶんと
呼ぶようになってきている

この頃




さわやかな白ジャケットの男


初夏の道を歩いていく
さわやかな白ジャケットの男
外国人だが
どこの人だろう?
金髪で
髭も金髪で

けれど
耳から下がるコードが
暑苦しい
スマホを見ながら
首を折り
背を丸めての
曲選びの格好が
わずらわしい

大きな通りに近づいて
途切れることのない
自動車の騒音
初夏のつよい陽射しの下で
それがむしろ
さわやかに響く

暑苦しい
コード
はずせば?

わずらわしい
曲選びのしぐさ
やめれば?