紀貫之
ってやつは
けっこう
好きなんである
だいたい
短歌が洒落ている
正岡子規がどんなにダメだダメだと言おうが
紀貫之の歌は
おもしろい
写実とか
ありのままとか
そんなの
最初から眼中にない
あんな詩歌
平安時代に作ってくれちゃったんだから
ステキ
『土佐日記』なんぞも
洒落てる
学校で
『土佐日記』=紀貫之
って
暗記させられるが
そういうのを無粋という
あの出だし
見てみ
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
男のくせに女のふりして書き出すのは
まァ
今から見ればまだ芸が浅いとしても
最初の一文から
次の文へと移ると
もうもう
門出す
なのである
門出す
と言っておきながら
ちょっとゴタゴタするが
それでもちゃんと
船に乗るべき所へわたる
んである
そこからふたつ目の文の最後では
もう
夜更けぬ
なんだから
はやい
はやい
なんだ?この展開のはやさは?
なかなか物事が進んでいかない村上春樹の小説とは
ぜんぜんわけが違うぞ
ってなこった
こういうとこが
好きなんヨ
詩歌の天才ってのは
紀貫之
だと思ってる
大伴家持とか柿本人麻呂とか
あのあたりは
ちょっと
天才ってのとは違う気がするし
藤原定家とか
後鳥羽院とか
藤原義経とか
あのあたりは大好きだが
けっこう
苦しんで作ってる感があって
らくらくスイスイの天才
ってのとは
違う感じかなァ
と思う
紀貫之である
なんたって
紀貫之
なんである
ところで
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
から
現代人もすなるネットというものを
非現代人もしてみむとするなり。
と
チコチコ
やってみたインターネットで
あれやこれや
ものを読んでみると
だいたいは
おんなじ文体なんだよな
これが
いろいろと違う意見を戦わしてたりするのに
文体は
おんなじ
時代のエクリチュールは
結局似てしまう
って
ロラン・バルトは言ってたような気がするが
たぶん
そうなんだろう
だいたい
議論できたりするってのが
もう
おなじ土俵に乗ってるってことだから
そらそうだろ
そらそうだろ
人知れぬ思ひのみこそわびしけれ我がなげきをば我のみぞ知る
色も香も昔の濃さに匂へども植ゑけむ人の影ぞ恋しき
夢とこそ言ふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな
紀貫之の話をしたから
紀貫之の歌で終える
たぶん
読んでない歌だろ?
ふつうの人は?
『古今和歌集』に入ってる歌なんであります。
読んでなきゃ
ダメだよ
なんのために日本語圏に生まれ落ちたか
わかんなくなっちゃうよ
我がなげきをば我のみぞ知る
我がなげきをば我のみぞ知る
我がなげきをば我のみぞ知る
べつに
嘆いてなんか
いないけどねわたくしは
若かりし頃
お金もないのに
よく銀座に行ってね
イエナ書店に行ってね
洋雑誌とかデザイン本とか
よく見ていた
ビルの1階と2階は近藤書店
3階がイエナ書店
晴海通り沿い
そうして
お金があまりなくても行けるということで
喫茶店に行く
アカンサスだったか
アカンザスだったか
そこへ
老婦人がやっていて
ちょっと話したりした
よく
『古今和歌集』を持って
そこへ行った
岩波文庫の『古今和歌集』
佐伯梅友の校注版
ランボーでもなく
ロートレアモンでもなく
銀座へは
『古今和歌集』
石川淳なんかも
選集をぜんぶ読んでいる頃だったから
持って行ったなァ
新作の『狂風記』なんかも
重いのに
抱えて行ったりして
銀座
は
紀貫之
『古今和歌集』だ
『土佐日記』
は
持って行ったこと
ない
かれこれ
知る知らぬ
おくりす。
年ごろよく具しつる人々なむわかれ難く思ひて
その日頻にとかくしつゝ
のゝしるうちに
夜更けぬ。
持って行けば
よかった
な
知る知らぬ
おくりす。
わかれ難く思ひて
その日頻にとかくしつゝ
のゝしるうちに
夜更けぬ。