2012年10月14日日曜日

蟲の音ばかりや残るらん

  

どうせぼくなんか

といつも思っている
どこかで思っている
しねこく思っている

勉強も運動もできなかった長い病気の少年時代
いいところもあったが酒乱の父
いいところもあったがヒステリーの母
うそのように襲ってきた落とし穴のようなたくさんの失敗

あれも捨て
これもあきらめ
なにひとつ
ほんとうに力を出せたためしもない
だらだらの人生

楽しいこともあったが
むなしさがいつも裏地にあって
おのずと手にとる本は
日本古典の
むなしさの染みた歌や文や

ああ、ほんとうに日本古典には助けられたよ
あれら
数々の引かれ者の小唄
ほんとうにあれらにしみじみ身を寄せて
日かげばかりを生きてきた心だったよ

うす暗い夕暮れ時
軒から軒を音もなく
すすっと歩いて
ひょおおおと消える
そんな暮らしをしてきたよ

ときおり音よく松虫などが
草葉の露も深緑*
秋の風更け行くまゝに
聞こえて声々友さそう
遠里ながらほど近き
こや住の江の浦伝い
潮風も
吹くや岸野の秋の草
吹くや岸野の秋の草
松も響きて沖つ波
この市人の数々に
われも行き
人も行く
阿倍野の原はおもしろや
阿倍野の原はおもしろや**

…などと心は往き
逝き
おかげで体が
生きのびた
次第

けれども
全身くまなく
細胞の
ひとつひとつに染みた
むなしさ
あいかわらず
日かげばかりを
生きていく
ほかなく
夕暮れ暗い頃
軒から軒を音もなく
すすっと歩いて
ひょおおおと
消える
消えてく
消えてきます
そんな暮らしを
していくよ
そんな暮らしを
していって

さらばよ友人***
名残の袖を
招く尾花のほのかに見えし
跡絶えて
草茫々たるあしたの原に
草茫々たるあしたの原に
蟲の音ばかりや残るらん
蟲の音ばかりや残るらん






*より**まで、謡曲『松虫』よりのパッチワーク。有朋堂文庫版謡曲集・下(昭和四年)によるが、仮名遣いは現代仮名遣いに直した。

***以下終わりまで、謡曲『松虫』の終結部分。有朋堂文庫版謡曲集・下(昭和四年)によるが、仮名遣いは現代仮名遣いに直した。



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