2019年5月31日金曜日

凝縮



裁判所から出て車に乗るわずかの間、夏の夕方を、その匂いと色を感じた。
                    アルベール・カミュ『異邦人』



だれにも哀惜されないこともっとも激しく
花も線香も手向けられないひとを
驟雨のなかのようにひどく視界の悪くなっている薄やみを通して
しばらく見続けることにしよう
このひとのこころに
この国の現在は凝縮されていたのだ





わたしの口を通して

 

茶といえば紅茶しか飲まないのに
めずらしく
緑茶が飲みたくなって
もう
三杯目を淹れている

なにか餡子を使った和菓子も
めずらしく
食べたくなって

めったにないことだから

あぁ、来ているのね
憑く
というほどでなくても
寄ってきているのね
気づく

餡子のお菓子は
買い置きしていないものだから
せめて
お茶だけは
もう一杯
飲んでいらっしゃいな

わたしの口を
通して



やめないが(やめないから)



いまも証上の修なるがゆゑに…
道元『正法眼蔵』


明るい時間でも見えない川は何本も宙を流れていて
巻き込まれたら浮き上がれなくなるかもしれない渦や澱みが
本当はある
いろいろなところに

背から脇腹に「あ、また一本、流れが……」と感じながら
わたしがぼくに沈められたあたしや俺を浚うべきは
この流れではないようだとはわかっているので
脇腹からどこか余所へ流れが続いていくに、また、任せる

ぼくをいまさらわたしが詰ったり
あたしや俺を哀れんだところでどうなるというのだろう
流れのなかに沈んでいったものの追求はやめないが(やめないから)
次第に法則のおのずからなる動きのように静かにわたしは進む





2019年5月27日月曜日

ほんとうにそう思っているので


  
A jar kept in water is full of water inside and outside.
Similarly the soul immersed in God
Sees the all-pervading spirit within and without.
Sri Ramakrishna


時間が進むこと自体が
とほうもない奇跡!
ここにいるかのように感じること自体が
とほうもないマジック!

だから
つねに神の創造そのもののなかにいると思っている!
ほんとうにそう思っているので
どうしようかといつも困惑しているんだ!

だって
こんなことばかり人に言ったら
どこに放り込まれちまうか
わかったもんじゃないものね!





言い添えておかないとね

 

音の底にはずいぶん深い空虚さがあるので
音楽はかなしい

聞くことは無の女神の素肌を撫でることだが
そのためにはあらゆる韻律を捨て
メロディーを捨て
音のひとつひとつを捨てねばならない

ところで
空虚さはよろこびでした……

言い添えて
おかないとね



花ばかり



花ばかり飾る人を
わびしいと思う

花がないことが
花のなさが
どんなに美しいか

知らせたい
思ったりもする

あることにも
ないことにも
まとわり憑かれない
ように

……という
思いにも
絡めとられない
ように




とにかくことばに



とにかく
ことばに誑かされないことだ

いちばんあざとい
平和
やさしさ
などということばに

まさか
動物を殺させるがままにしておいて
動かなくなった肉で
きれいな料理をこしらえて
食べたり
食べさせたり
そんな人の口から
発せられてはいまいな

平和
やさしさ
などということばは




それさえも見ないほうが

 

死ななかった人が生き続けていくのを
見ていればいい
見ていなくてもいい

彼は生き続けていく

途中で死んだって
生き続けていくのだから

見ていればいい
見ていなくてもいい

どちらかと言えば
死ななかった人が生き続けていくのなど見ずに
あなたが生きていればいい

どれだけ
死ななかった人が生き続けていくのなど見ずに
あなたが生きていけるか
それを見るほうがいい

それさえも見ないほうが
もっと
いい



無や非が



ときどき言ってしまいたくなる

(みなさん!
(わたしはほんとにあなたがたを無価値だと思っています!
あなたがたが信じていることなんて安手の子供だましのお話のようだし
(あなたがたが時間と労力をつぎ込み続けていることなんて
(大宇宙がまったく必要としていない傍迷惑な騒音でしかない!
(あなたがたはそんなことのために生まれてきたわけじゃないし
生物はそもそもなにかのために生まれるということなんてないのだし!

ときどき言ってしまいたくなるがもちろんいつも言わないでおく

創造神から天地創造のプランについて意見を求められたとき
無や
非が
なにも言わなかったように




淡いはかないふわふわの

 

だれを見ても
狂ってるな、この人……
思う

だって
ぼくがさほど興味の持てないものに没頭し陶酔していたりするんだもの
血道を上げている
とさえ言いたくなるほどに

うっすらした狂気や
べっとりした狂気や
サクサクした狂気や
パリパリした狂気が
ゴミのないピカピカの現代都市を歩いている

そうしてぼくは知っている
これら
狂気くんたちは
なぁんにもしない狂気だ
宇宙の果ての
ぼくの真の友の耳目にまで届くようななにかを
ぜったいにやり遂げることのない
淡い
はかない
ふわふわの狂気だ




一日のいちばんすてきななにか


 
どうして
あんなに高い
いい声で
鳴くのだろう
日の出が近づくころを
小鳥たちは

日の出より
よほど
すてきで

すっかり
明るくなって
かれらが鳴きやめたり
いつもの
ふつうの鳴きかたに
換えてしまったりすると
ちょっと
がっかりする

朝日よりも
朝の明るさよりも
すてきななにか
一日の
いちばんすてきな
なにかが
終わってしまったようで




2019年5月26日日曜日

埃だらけのたったひとつの鏡を




あらゆる思いもこころも
じつは出来合いのごくごく通俗的な表現の寄せ集めでできている
とは
わかっているのだが

それでも
ほんのちょっとは出来合いさ加減のうすい表現で
じぶん自身にむけて言い表してみたい
ほら
わたしはこんなことを思い
こんなこころを持っていたんだよ

いつのまにか手近にあった
埃だらけのたったひとつの鏡を
やはり埃だらけのぼろ布で拭いて
じぶんの顔を
もう少しはっきりと映してみようとするように





ニューヨークやワシントンの上空を



ニューヨークやワシントンの上空を
それも
ビルの屋上すれすれを
わが日本国の自衛隊のヘリコプターが飛び回ったら
どんなに爽快なことだろう

そんなことを
平和主義者でさえも空想してしまう

トランプ大統領が来るというので
傍若無人に
東京都の低空を飛び回っている複数のアメリカ軍ヘリコプターを
撃ち落す高射砲もなしに
地対空ミサイルもなしに
ただ案山子のように
ボーッというふうを装って
見させられていると





この世界ならではのリアル感を体感し続けようとして




この世と呼ばれたり
現世と呼ばれたり
現実と呼ばれたり

とじぶんを思い込んでいる意識たちのこの世界は
すくなくとも
摩訶不思議な原子や素粒子が構成する意味での物質界と
それとは甚だしく性質を異にする精神界の重なった世界
だが

はまことに様々なようでいながら
この世界ならではのリアル感を体感し続けようとして
まことに様々であるかのような行為を
まことに様々にとり続けている

それだけのこと
良くも
悪くも

この世界の外に出たら
もちろん何の意味も味わいも面白みもなくなってしまうリアル感
ただ
それだけのために




見ても見ても見ても集めても集めても集めても尽きない




打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして
春日井健


TwitterInstagramに写真や画像を載せ続けてみていて
いつのまにかずいぶんな枚数になった
Twitterのほうの枚数などは優に2万を超えて2万5千も超えるらしい

自分が撮影した写真や自分が描いた絵画の写真ではなく
インターネット上で見かけて興味を惹かれたものを載せるだけなの
100パーセントなんの意味もない行為といえる
創造行為の提示でもなければ商売への誘導でもない
そもそもTwitterのほうには
「情報の外れへ、意味と有益さを逸れて」
というちょっと気取ったモットーを記してある
いま見直すと気恥ずかしくなるが正確な気持ちではある

インターネット上には興味を惹かれる写真や美術などがずいぶんあ
それを時々コピーしてパソコンやスマホに保存するうち
自分の側の機材のメモリーを食わせないように
TwitterInstagramに保存することを思いついた
そうして始まった画像収集に過ぎないのだが
こんなふうに画像を収集することにも見続けることにも
いつかきっと飽きてしまうだろうと踏んで始めた行為なのに
未だに飽きないで続けている
きれいさっぱりと無意味で愚かこの上ない行為なのに
未だにやめられないでいる
もう厖大な時間をこれに費やしてしまっているが
未だにやめられないでいる

未だにやめられないのは
興味を惹かれほんの少しでも手元に置いておいてみたいような画像
2万5千を超えてもまだまだネット上には存在するからである
じつはこのことは今になって痛切にわかるようになった意想外の事実で
はじめのうちは
数百や数千も収集すれば飽き飽きしてしまうだろう
私自身の好奇心は必ず早急にすり減り
興味を惹かれるという精神の若さや幼さや新鮮さも失せるだろう
だいたい画像などというものの美学的・快楽的なパターンはごく有限だろう
そう信じ込んでいた
つまり何の意味も価値もないはずの画像の収集行為が
私にとっては私自身についての再発見の過程となったのである

見ても見ても見ても集めても集めても集めても尽きない
私の興味を惹き続ける画像の陸続たる存在に私は眩暈を覚えている
こんなちっぽけなアングルから私は世界の豊穣さに直面しているといえる
もしTwitterInstagramをこんなふうに愚かしく用いていなければ
私は自分の専門としなかった写真や美術の世界の限界性を抽象的に信じ込み
この人界の想像力や創造力の限界性の狭小さについて
世のたいていの大人たちのようにわかったつもりなっていただろう

なんの意味もない下らない愚かな時間つぶしのおかげで
私は少なくとも人間が作り出す画像の無限さについては認識を新たにし続ける
画像とはひとつの宇宙であるばかりかたった一枚にして永遠である
それがなければ見いだせない無限の重層宇宙への入り口でもある
こういうことが身にしみてわかるということを「意味がある」とか
「意義がある」とか「価値がある」とか私は言わないし言いたくない
どこまでも価値がなく愚かであり下らないと言いたがる私であるし
そう言い続けることが精神の品格でもあれば謙譲さでもあると思っている

誰よりも下らない愚劣極まるTwitterInstagramの使い方のおかげで
私はひさしぶりにソビエトの強烈な文芸評論家バフチンの言葉を思い出す

彼の有名なドストエフスキー論にいわく
「世界にはいまだかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない。
世界についての最後のことば、
世界の最後のことばは、まだ語られていないし、
世界は開かれたままであり、
自由であり、
いっさいはこれからであり、
永遠にこれからであろう」