近松徳三の『伊勢音頭恋寝刃』2021年版上演を見たのは
隼町の国立劇場の一階三列二十一番の席で
舞台も近ければ花道も近かった
花道の七三にあるスッポンも間近い
近視なのでいつも舞台に近い席を買う
関係者からトチリ席を取って貰ったりすると
特上の席なのはわかっていても
近視の目には舞台が遠いので不満だったりする
前から五列ぐらいまでがお気に入りなのだ
親が現白鸚や三代目猿之助と知りあいだったので
なにかの機会に券を取って貰ったのが縁で
『蹔』や『車引』をはじめて見て以来
歌舞伎にぞっこんになってしまって
大学生の頃いい席のみで見る歌舞伎通いの味を知り
アルバイト収入は右から左へと消えていった
二十代三十代は完全に日本文化から離れたので
歌舞伎座にも国立劇場にも行かなくなったが
コクーン歌舞伎で勘三郎の大活躍を見てからは
いつのまにか観劇に舞い戻るようになった
歌舞伎座のハイライト的見世物はあまり好まないものの
国立劇場の通し狂言での出し方には
古典鑑賞として地道につき合い続けている
『伊勢音頭恋寝刃』のような地味な劇を見るには
舞台の間近や花道近くの席はとてもいい
舞台から花道に入ったところで役者たちは止まり
なにかしらの演技をカデンツァとして行うので
息遣いがじかに伝わってくるような至近距離もいい
凝視はされないまでも役者たちの目は
近くで見上げているこちらの顔を確実に捉えているので
見ているだけでなく見られてもいると感じる
そんな感覚は舞台や花道近くの席でないと味わえない
今回も中村梅玉や中村扇雀たちが花道で立ち止まり
いろいろと演技をするのを間近で見続けたが
中村萬太郎や中村かなめや中村梅蔵たちが
脇を固めながらの大活躍を目の前でするのを見ていた時
彼らが演じる役柄たちもこれらを創造した徳三も
1700年代末から1800年代以降の日本の成り行きを
当然ながら全く知らないのだとふと気づき直した
当たり前のことで驚くべきことでもない
しかし目の前に生き生きと演じられている人物たちが
1796年創作の時点より以降の日本を知らないのだと
今さらながらに気づき直してみるとショックだった
幕末から近代のどうしようもない歪みも表向きの刷新も
全く知ることなく奴林平や杉山大蔵や桑原丈四郎たちは
こうして舞台に花道に華ある脇役として躍動している
これはどういうことかと異界に放り込まれたようだった
古典やフィクションというものの不思議が降りかかった
幕末以降現代までの日本を全く知らない日本人が
観客たちよりもかくも生き生きと躍動している様が
どう解釈していいのかわからない謎を突きつけてきた
もうだいぶ昔のことになってしまうが
馴染みの『勧進帳』をたしか九代目松本幸四郎が演じたのを
歌舞伎座で見直した際のことだったと思うが
幸四郎の口舌のよさが際だった劇が跳ねた後にお手洗いに行って
もう人もいなくなった脇の廊下をふとふり返った時
何の違和感もなく弁慶が立っていたのを見たことがある
義経をうまく逃がすのに成功し
六方を踏んで花道を走り去って行ったと見えたはずの弁慶が
歌舞伎座の脇の廊下に立っているのだった
もちろんこれは私の見た幻影であって弁慶がいたはずなどない
だが私としてはこの時たしかに弁慶を見たと感じ
弁慶や歌舞伎というものの奇妙な霊体のようなものが私の意識の奥
あまりに深く入り込んでいると確認した瞬間でもあった
あくまでフィクションの中の人物造形としてであっていいのだが
あの弁慶という男は源義経を本当はどう思い
自分の運命やべつの行動の可能性についてどう思っていたか
そんなことがしきりに思われてならなかった
建物は変ってしまったものの今でも歌舞伎座に行くと
脇の廊下に入り込んだ時には実体験のように思い出す
あの夜ここに弁慶が立っていたのを私はひとり本当に見た
それが幻影に過ぎないと考えるべきことを私はよくわかっているが
しかしその経験が私自身についての私の認識を大きく掘り下げ
現象や世界についての今の私の見方の土台を作っている
ひとりの人間の意識にリアルな変容や気づきをもたらすのならば
幻影の幻影たる性質とははたしてなんだろうかと
2021年10月の『伊勢音頭恋寝刃』を見た後の私は
ゆくりなくもまた思い返しはじめている