谷崎潤一郎はバルザック全集を読破し
芥川龍之介にもバルザックを勧めたというが
フランス語の読めなかった彼が読んだ全集とはなにか
東京創元社のバルザック全集は大学時代の私の愛読書だったが
全訳にはほど遠く実質的には代表作集だったので
谷崎の頃にも全集があったとは想像できないのだが・・・
バルザックを読むために必死でフランス語をやったが
中級程度では歯が立たないバルザックの原文のうちでも
『知られざる傑作』などはまだ読みやすくプレイアッドで読んだ
どこへ行くにも分厚いプレイアッド版をわざわざ持って
バルザックバルザックバルザック・・・と打ち込み続け
卒論もバルザック論だったし生涯バルザック研究のはずだった
個人的な読書史の上ではバルザックから私を逸らしたのは
1980年に変貌したル・クレジオと当時絶好調のドゥルーズで
古今集にも馴染んでいたところへ偶然寺山修司が飛び込んでも来た
精神的無一文の私はバルザスィアン(バルザック好き)
唯一のアイデンティティとして東京の晩秋を彷徨ったが
ランバルディアン(ランボー好き)
マラルメの碩学松室三郎先生のマラルメ講義にもぐった時は
象徴詩の論評課題にマラルメでなくランボーを許可してもらって
あの時は確か『イリュミナスィオン』の中の「Dévotion」
晩秋の大学ほど薄ら寒く侘しくさびしいところはない
人の絶えた廊下から中庭に出れば大きな銀杏は黄金の葉を落し
どこか寒い世界から染み上がって来たような空気が妙に澄んでいる
誰かに会いたい気もしながらそして偶然会えそうな気もしながら
ゆっくりと足を運ぶうちに結局誰にも会えずに校門を出て
舗道に出て夕闇の信号の色を心に吸いながら街の繁華なほうへ行く
だんだん人の数が増えて雑踏の中をすり抜けるように進みながら
こんなにたくさんの人がいるのになんと独りの晩秋かと感じ
重いバッグの中のバルザックやランボーにちょっと魂を寄せ直す
ひょっとしたらもう私はひどく年老いて死んでしまってさえいて
昔むかし経験したことのある学生時代を懐かしんですべてを妄想し
もう何も残っていないのに晩秋の繁華な街さえ想像してみているの
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