2021年10月2日土曜日

ふいにいなくなってしまう

 


        主体は世界に属さない。

            ウィトゲンシュタイン  




わたしはtwitterの愛読者で

日々読み飛ばしていく記事の量は厖大なものといってよい。

東日本大震災後に自然災害や原発災害情報の収集用に

Twitterは始めた。

そのうち国際問題なども追い始めて

メールアドレスをたくさん持っていたものだから

それを使ってアカウントを十いくつも作った。

だいたいのテーマ別にしてあったのが

フォローを増やしていくうちに

どれもこれもヘンに膨れ上がって

当初のテーマの輪郭がわからなくなってしまっている。

フォローというのも

わたしの場合は自分と似通った主義主張の人を追うつもりもなく

不愉快な書き方をする者を面白がってフォローしたり

理屈の通らない馬鹿な書き方をする者をフォローしたり

時代錯誤の右翼風情もフォローすれば

正義ぶってその実馬鹿丸出しの社会主義者ふうもフォローする。

ようするに誰も彼もを馬鹿にしているのだが

おかげで自前の赤新聞がいくつもできたわけだ。

昔よく見ていた『噂の真相』や『現代の眼』や

『諸君!』や『朝日ジャーナル』などを合わせたような小記事群を

手に乗るスマホ端末で無限に見られるのだから

世間を垣間見るには悪くない。

もちろんこれで「世間」が見えたと思っていたら

それも陥穽に落ちたことになるので

なにかというと「見えた」気になる驕りにも注意してはいる。

 

Facebookというのもひと頃はけっこう見たり

写真を出してみたりしたものだったが

わたしが出すものをたしかに見ていてくれた知りあいが

けっこう死に絶えてしまったり

離れてしまったりして

もうなにかを見せるべき相手がFacebookには関わってはいない。

開くと知りあいの記事が流れていったりはするが

なんというべきか

そうした記事から垣間見える知りあいたちが

どうしようもなく老いて古びてしまったように見え

この数年は彼らの名を見るとわざと読まないようにしている。

若者たちがFacebookを嫌うのもわかる気がする。

オヤジ臭いというか老人臭いというか

どうでもいいことについてどうでもいいことを書いている。

どうでもいいことをどうでもよく書いてもいいのだが

Facebookに書いて流してしまうというところに救いのなさがある。

どう転んでもあそこは社会ネタを流す場所なので

どうでもいい個人の生活ネタは流さないでほしいと思う。

社会ネタを探している方としてはそういう個人ネタは邪魔なだけなのだ。

 

個人ネタといっても

驚くほど見事に完結に言葉を選んで

詩でもないのに詩を凌駕した文言を記すような人もいた。

その人が選んできたり

自分で撮ってきた写真にそうした言葉を添えて

高級な雑誌の言葉数の少ない優雅なページのようにする人たち。

十年前から七年前くらいには

そんな人たちが何人かいて

毎日その人たちのページを見るのが楽しかったし

SNSという場の高雅な使い方の模範を見せられるようで

いろいろと学ばされもした。


しかし

そういう人たちは

ある時

ふいにいなくなってしまう。

Facebookからアカウント停止をくらったわけでもないのに

ふいに消えていく。

何人かは

これで終了します

と言い残してFacebookを去って行った。


フォローしていた人たちとの問題が生じた場合もあったらしいが

安易でない

軽薄でない

しっとりと美しい

ハッとするような気づきのある写真を毎回選んで

そこに

けっこう渾身の短文を添えて

出し続けていくことに

きっと

疲れたのだろう

と思いやられる場合もあった。


SNSが最も危険に作用するのは

自己のこだわりと美意識と公開性と継続が絡みあって

内奥の意識のエネルギーを

はてしなく吸い込み続ける回路に入った場合なのである。






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