疲れるのにも飽きたので
近ごろは
疲れるのも
やめたのである
だいたい
昔のおばあちゃんなんかは
疲れた
などとみだりに言わず
古式ただしく
くたびれた
と言ったものだ
くたびれた
というのは
なかなか
いいものである
稲穂の揺れるのや
お寺の柿の木なんかが
見えるようでは
ないか
ちんちん電車の
行くのが
聞こえるようでは
ないか
疲れるのをやめたから
これからは
くたびれようと思う
もっと
もっと
くたびれよう
これからは
くたびれるぞ
もっと
もっと
くたびれるぞ
地に足を着ける
それって
よいことのように言われるが
いまひとつ
ぼくは着けてなくて
いつも
ちょっと浮いているようで
でも
かえって
よかったよ
今にして思えば
と
ハンスという人の
昔語りに
あった
こぞって
友人知人が
兵士にされた時代
地に足を着けて
ゲットーや
殲滅収容所で
ずいぶん頑張りを見せた連中も
いっぱいいたけれど
ぼくは
いまひとつ
地に足が着いていなくて
でも
かえって
よかったよ
今にして思えば
と
べつの地に
足を着けていた
ハンスという人の
昔語りに
あった
歩きながら
どうもアタマが
アタマが
クラ
クラ
クラクラ
するな
ァ
と感じてたが
そうじゃなかったんだ
まわりのほうが
世界が
クラ
クラ
クラクラ
していたんだ
気づいたぞ
ほんとうに廻っているのが
やっぱり
太陽のほうだったと
つい
このあいだ
気づき直したように
遠くのどこか
塔が見えるわけでもない
山もない
待つものもなければ
対話すべきこともない
相手もいない
自分とさえ
もう
対話のまねごとなどしない
ここらで
視線を
たとえば足元に落として
なにかの象徴のように
小さな葉を
描いたりしたかもしれない
以前ならば
今はもう
しない
そんなことをすれば
詩のようになってしまうから
沈黙
…などと
安易な単語を置くことも
もう面白くない
もう面白くない
…というのが
いい
いい批評拠点だし
たぶん
いい足の踏み場
われ面白がる故にわれあり
われ面白くない故にわれあり
いいんじゃないか?
もう面白くない
…と思う時
軽い死がある
軽い
軽い死だが
そこから再生する
再生は
つねに本物だぞ
ふいに
時間の側から
じぶんを見ているような時って
あるでしょ?
それが誕生の時
じぶんと思い込んできた
思いも
気分も
からだも
任されていた人形のようなものの
小さな一部
いつまでも
生き
続けられるわけでも
ない
と呟いていた
海峡の
黒の
ような濃紺の水のそこに
ほんのちょっと
稀な石を
投げ込んでみた
ところ
いまからピーチジュースを飲みます
それから
ちょっと豪華な
ランチが待っているんだ
ナイフを
ないふに
するすべを知ったのも
夏が
子どもだった頃の
沼のほとり
なにを切ろうとしても
なにを刺そうとしても
ないふは
ニュニョッ
ニュニョッ
としてしまう
これが
合格のしるし
夢の猫が
夢からすこし
はみ出た娘たちのところへ
きっと
行くところなのだろう
小走りに
やわらかい毛なみが
わたしの肺の
ちょっと明るめの通りを
過ぎていった
だれにも
読まれないのが
とても
すがすがしい
からだが
透いてくるのを知ったのは
もう
数十年前のこと
すっかり
見えないからだになって
あたらしい夏も
街から街
歩いています
声も
だれにも届かない
笑いや
からだの温みも
もちろん
抱きしめていておくれ
若い
かるい夏よ
いまは
あなただけのわたし
汗を呼ぶ
空からの暑さ
昼の圧力
鋼のような陽射し
それらで
こんなにしあわせなのだもの
抱きしめていておくれ
若い
かるい夏よ
いまは
あなただけのわたし
行くところがわからないほど
崇麗なものはないだろう
すべて偶然の信託によるべきだ
ゴマと火と塩とヴィーナスの
先見にたよるばかりだ
西脇順三郎
「生物の夏」(『禮記』)
ちょっと
じぶんを
立ち止って
あたりを
見まわすと
どれも
これも
偶然から
集まってきたもの
ばかり
モノも
ことがらも
感覚の種も
思いのしくみも
必然や計画という邪神を離れ
あゝ
ふたたび
盛大に
徹底的に
偶然の神に帰依し直そう
意識が凝り成った
時代も場所も偶然なら
まわりのあの人この人みんな偶然
こんな漢字仮名交じりを
書くハメになったのもまったくの偶然
いったい
どのあたりから
チッポケな
ケチ臭い計画主義に
陥って
しまって
いたんだったか
時間とは
なにか、まだ
掴みきって
いないと言いたげに
かたつむりが
紫陽花の葉から
べつの葉に
たぶん
移りたいのだろう、ゆっくり
からだを
伸ばし始めていて
それから生まれる時間が
光景を包んでいる時間に
まったく新しい
挨拶をした
環状線の下だけ
やや暗く
ひっそり静まっていた
ぼくらはようやく
息がつけるようだった
ぼくら…
かたちを成したこともない
未来の小さな水滴と
生まれるのなど
考えたこともない
大きな潤った空虚のようなもの
そして
ぼく
どこかから
逃げてきたわけでもなく
どこもかしこもが
つらくて嫌だというわけでもないけれど
たぶん
ずいぶん歩いてきたからだろう
ちょっと涼しい
暗いところで
息をつきたい気がしていた
やや暗く
ひっそり静まっていた
環状線の下で
ぼくらは
おしゃべりもせずに
目を見開いていた
蔭になったところや
環状線のはずれの
日当たりの強い明るみを
交互に見ながら
でも時どき
蔭や
日当たりのどちらかを
じっと見据えたりしながら
そうしてやっぱり
なにも
細かくきっちりとなんて
考えたりせず
あたまや心の中を
すっかり辺りの世界に横取りされたまま
呼吸をし続けていた
だから
ちゃんと生きていたとか
とにかくどうにか生きてきたなんて
主張するつもりはない
ぼくに
なにか中身らしいものがあったなんて
あんまり
信じてもいない
ようやく
息がつけるようだったから
そんな環状線の下に
入れたから
息をついただけ
息をしていただけ
細い板を渡した
たよりない
舟着き場の先端まで行って
戻ってくるだけが
毎朝の
日課のようになった
台所の裏ドアから出て
露に濡れた草を踏み
湖から突き出た木板の先まで
ゆっくり足を進め
先端まで行く
しばらく潤った静寂と居て
たぶん
わたしと
新たな日との間の
まだ固まっていない
薄い肌のようなものを
誰にも気づかれないように
見とがめられないように
調律する
やがて
落ちないように
後ろに向きなおって
もうずいぶん古い木板の並びを
身軽な動物のするように
足先で音も立てず
戻ってくる
わたしが生まれない頃
むかしむかし
この舟着き場は賑わったそうで
朝な夕な
おめかしした人たちが
ひとりひとり
舟から下りたり
乗り込んだり
そうして
今は跡形もないお城への
近道を
ここから辿っていったのだとか
もう舟は着かず
出てもいかず
木板が湖の水面に伝えるのは
わたしの足の動きだけ
湖に知られたくない
思いも
思い出も
いっぱいあるわたし
本当にひっそり歩を進めるので
湖がさざ波を立てることも
ほとんどない
わたしの動きのせいで
などは
まだ明け方に間のある頃
雨もようやく止んで
ちょっと濃い珈琲をすこし
ほんのすこし
飲みたくなって
厨にむかう
わたしの小さな居間から
何段も
何段も
階段を下りて
いったん玄関ホールの
広い静寂の中に身を滑らせ
それから
長い
長い
廊下をたどって
青年時代までは入るのを禁じられた
大きな厨にむかう
ほんのすこし
濃い珈琲を飲みたくなっただけ
というのに
なんという冒険だろう
明かりも仄かにしか点いていない
長い
長い
廊下をたどって
わたしはまだ厨に辿りつかない
この廊下は本当に長くて
その時の歩幅や速さによるものの
どうしても15分はかかる
わたしはまだ厨に辿りつかない
けれど
着いたあかつきには
好きな珈琲の種類のうちの
どれにしようかと
ちょっと楽しく迷いながら進む
豆を挽くことから始めないといけないが
珈琲挽きには
前に挽いた豆の風味が残っていないかしら
それをもう一度よく
拭きとらなければいけないかもしれない
先に湯を沸かし始めたら
沸くのが早過ぎていけないかもしれない
水も井戸に汲みにいかなければいけないけれど
この夜明け前の暗がりの中で
井戸を除くのはちょっと怖いかしら…
いろいろ思うけれど
わたしはまだ厨に辿りつかない
まだまだ
辿りつかない