2017年4月18日火曜日

ドサッ! ときにはネ



魚であることをたまに止めてみると
だった
原始林から
無為無為無為と規則的な
立てて
偲ぶあの峠の
あの峠で見た大きな鬼薊の花がトランプの絵柄になっているのに
ちょっと驚いたものの
カール!
ビン!
しちゃうでしょ!
ちゃんと戻さないと!
いやいや
いやはや
正常性バイアスの羊たちがちっちゃなモニター睨みながら
霊界通信をはやくもアストラル体で受信していて
コンテンツの中には《五月も残酷な時期になるだろう…》との
意味合いの文言もあったような
愛したような
媼が包丁を研いで夏を待っている
ぼくの麦藁帽はどこへ行ったんでしょうね…
ほんとに
どこへ行ったんでしょうね
あれも
これも
なにもかも
あんなに本当で本物でリアルで…
熱くってねェ、触ってみると…
この手のひらが覚えているっていうのにねェ…
どこへ
行っちゃったんでしょうねェ…
ほんとに

…と、
レアーチーズケーキ
食べている
幸福
大都会のごった返す舗道のちょっと気取った喫茶店に
フッと
雲がくれするように入って
音もなく
声もなく
指さして
頷いて
ついでにちょっと
ニコッとして

カール!
ビン!
しちゃうでしょ!
ちゃんと戻さないと!

気にしない
気にしない
ぼくら
正常だもの
いつだって正常
桜ひらひら

ドサッ!
ときにはネ



2017年4月17日月曜日

そんな時期に



ドリップさせて
ちゃんと淹れるコーヒーより
インスタントコーヒーを
さっと淹れるほうが
気分にとても合う深夜もある

そういう夜
音楽もかけず
モニターを点けたりもせず
手帳の月間欄や週間欄を開いて
正面にでなく
わきに置きながら
まだ自分でない自分
これから集まって来て
近い未来の自分を構成していく要素たちの
主要ないくつかを
霧の中に位置を探るように
見定めようとしたりする

見定めようとするとはいっても
かたちはどれもおぼろげで
漠然としか定位できないけれども
それがまたよいところ
かたちや出来事や事態たちは
時間とたくみに結託して
まだまだと思っているうちに
すぐにも現出してくるから

おぼろげで
漠然と見定めがたい頃にも
それなりの楽しみ
インスタントコーヒーの曖昧さは
そんな時期に
よく合っているのかもしれない




2017年4月5日水曜日

子どもの頃に見た絵本の中に



ぼくは頭が人いちばい悪いかもしれないけれど
それでもいいと感じている

子どもの頃に見た絵本の中に
こんな絵があった

満月の夜
赤ちゃんをおぶったお母さんが
井戸端に立って
赤ちゃんに
子守歌を歌いながら
あやしていて
そうして
なぜだか覚えていないけれど
ネコだか
タヌキだかが
微笑んで
赤ちゃんのほうを見上げながら
井戸水を引き上げている

ネコだか
タヌキだかも
お母さんも
赤ちゃんも
満月に煌々と照らされて
明るさと陰とを
劇的に帯びている

ぼくは頭が人いちばい悪いかもしれないけれど
それでもいいと感じている

子どもの頃に見た絵本の中に
こんな絵があった
という
ことだけで
もう
なんだか
すべてはいいのだ
この世に来た意味は十分あって

そうして
そういう意味は
もう
済んでしまっている
完了してしまっていると
つよく感じている
から




じつは海だったのさ


  
青い表紙の手帳を使っていて
いつも
机の上に置いてあるわけだけれど

このあいだ
ずいぶん驚いた

青い表紙にさざ波が立ったかと思うと
イルカのような
ラッコのような
顔がひょいと出てきて
こっちを向くじゃないか

すぐに引っ込んで
さざ波も
すぐ消えたのだけど

本当だったんだ
ぼくの手帳
じつは
海だったのさ



ひたすら主体でない誰かでしか


  
あたりまえのことだが

映画は
見ているかぎり
永遠に現在

過去に撮られたに決まっているけれど
映写しているあいだ
そこには
現在しかない

スクリーン上や
モニター上
そこには
現在しかない

ここに映画の魔術がある
魔も

写真はどうかな?

写真は違うかな
思ってきたけれども
写され
そこにあるイメージは
現在そのもの

現在がある
なんてものではなく
現在そのもの

見るということが現在そのものだから

撮った写真が
いっぱいありすぎて
整理に
困り切っていると

あゝ
ぼくって
誰でもないんだ
いないんだ
思ったりする

いっぱいの
いっぱい過ぎる
複数形現在を
テーブルの上に散らかして
それを
統括できるのは
誰でもない
いない
ひたすら主体でない誰かでしか
ない



若い頃に読了したサルトルの『嘔吐』が出てきた



本の整理をしていたら、
偶然、若い頃に読了したサルトルの『嘔吐』が出てきた
読了日まで記してある
もうこんな記入はしない
若かったんだな

ランボーやプルーストやベルクソンにも強かったサルトル学者の平井啓之先生に親しく接していた頃で、
学生時代に学徒動員された先生は、よくおっしゃっていた
「仏文をやっていたのが、軍隊ではちょっと幸いしたんだよ
「軍人は馬鹿だからね、
『お前は大学で何をやっていた?』と聞かれた時、
『はっ、仏文であります』って答える
『フツブン?漢字ではどう書くのか?』
『はっ、ホトケにブンであります』と言うと、
『ホトケのブンか。お経だな。軍人として、いい心がけだ』と誉められたりする
英文科の連中なんか、年中ビンタされっぱなしだったよ
眼鏡かけている奴なんか、
『眼鏡取れ!、歯を食いしばれ!』って怒鳴られて、
おもいっきりひっぱたかれるんだ
毎日、その繰り返し

先生の三高時代の親友、林尹夫は、
軍用機操縦士となってアメリカ空軍機に打ち落とされ、
その日記『わがいのち 月明に燃ゆ』(筑摩書房)は戦没学徒の遺作のうちでも有名な一冊となった
大東亜戦争を否定し、戦局の不条理を冷静に観察しつつ、
英語、フランス語、ドイツ語の文学や思想について原語で研鑚を積み続け、
ある日、偵察飛行に出て空に散ったこの人の日記には、
強く鼓舞されるところがあり、
ぼくの若い頃の愛読書のひとつだった

サルトリアンの平井啓之先生は、
いつまでもドゥルーズを認められず、
「あれのどこがいいんだい?わからないよ」とおっしゃっていたが、
だいぶ歳をとられてから、
ベルクソン研究からの繋がりでドゥルーズ開眼を果たし、
ベルクソン論の翻訳を出版された

そんな昔話はともあれ、
今年は数人の読書会で『嘔吐』原文の再読を開始したばかりなので、
字の大きめなガリマール社のブランシュ版が出てきたのは、
ちょっとありがたいんだな





聞く相手がない時こそ いっそう


  
その店にはテレビがついていて
なにかの先生か
評論家らしい人が
「ことばっていうのは
「聞く相手があって用いるものですから…
とか
なんとか
しゃべっている

ちがうんだな

聞く相手がなくっても
用いるものだよ
ことばって

聞く相手がない時こそ
いっそう
用いるものなんだよ
ことばって



まるで燃焼機関のしくみでも見るように



いつの桜の頃だったか
しつこいほど花見に呼ばれたのに
行かなかったことがあった

大事な用事があったからだが
行ったとしても
あの面々との花見では
どうにも面白くはなさそうだと
思われたのもたしか

用事はスムーズに終わり
花見の場所は帰路にあったので
参加するつもりはないものの
盛り上がっているかどうか
脇から見ていこうかと思った

十人近くが集まって
けっこう盛り上がっていた
想像されたとおりに
そのうちのふたりだけが
声を張り上げてしゃべり続け
他の人たちの話など
引き出そうともしていない

面白くなさそうだと予想したのは
いつもと同じように
このふたりが我がもの顔に
自分の話ばかりすると思われたから
かわいそうに他の面々は
なかなかいい人たちなものだから
一方的に聞かされるばかり

かれらの輪に入っても行かず
声さえもかけずに
ちょっと離れて
この面々をただ見ていたばかりだが
あゝよかったよかったと
心の底から思えてきて
胸が温かくなるほど和やかになれた

話に付きあわされている面々を見ながら
その時かれらの時間といのちが
しゃべるふたりの勝手な傍若無人な話に
せっせせっせと変換されていくのを
まるで燃焼機関のしくみでも見るように
わたしは凝視したように思った

二度と戻らない時間といのちを
ふたりのこんなおしゃべりに
どんどん変換されていくままにして
かれらの未来の炎の芯が
どんどんと短くなっていくのを
おそろしいほどありありと
見させられているような気がした

たゞそれだけのことで
以後は二度と花見などしませんでした
などということはなくて
ありきたりに物見遊山し続けたが
どんな小さなことをするにも
人はごっそりと時間といのちを
注ぎ込む他ないさだめだとは
ありありと見えるようになった




2017年4月4日火曜日

しあわせ



水というものは
たゞたゞ
旨い
そんな水が飲めれば
しあわせ
空気が吸えれば
しあわせ
青くても曇天でも
空が見えれば
しあわせ
美しい雲や
どこか惚けた雲が
いくつも浮いていれば
しあわせ
地面には緑があれば
しあわせ
溢れるほどの緑でなくても
そこそこの
緑があるだけでも
しあわせ



知恵…


毒を仰いでの
処刑
その死に臨んでソクラテスが
クリトンたちにむかい
魂の不死についての対話編『パイドン』で
最期の話を続けている

わたしが述べたようなぐあいに
地下の世界というものがある
そう確信をもって主張することは
まぁ
理性ある人には
ふつうは
ふさわしくないということになろうね
でも
魂が不死なのはあきらかで
魂とその棲み処について
あのようになっているのだと思うのは
すこぶる適切なことなのだし
そんな考えに身を託して
危険を冒すのも価値がある
そうわたしは思う
なぜなら
この危険は美しいのだから!*

パスカルと同じなのか
神がいるか
いないか
という問いにおいてなら
いる
と賭けたほうが
勝算が高い
そう言ったパスカルに…

魂が不死だと
賭けて生きる危険を冒すほうが
美しい!
そう
ソクラテスは言うのか…

急いで毒薬を飲む必要はない
中には
さんざん飲み喰いしたり
好きな者と交わったりしてから
ようやく毒を仰ぐ者もいるぐらいだから
とクリトンは言い
ソクラテスの死を遅くしようとする
しかし
ソクラテスは言う

彼らはそうすることで
儲けていると思っているのだ
でも
わたしは思う
ほんの少し後に毒薬を飲んでも
儲けになんてなりはしない
わたし自身に対して
わたし自身を笑いものにしてしまうのが
関の山だろう
生きることに恋々として
もうなにも入っていないのに
杯の中を舐めまわすようなことをして

わたし
なるものの在り処
それはどこか
どこから
どこへ移るか

それを確信していなければ
危うい
その場合
危険は
美しい危険ではなくなる…

クリトンは
もう少ししたら
死体となって眺められる者が
わたしなのだと思っている
だから彼は
わたしをどのように埋葬しようか
などと尋ねてくる
さっきから
ずいぶん長々と話してきたのだがね
毒を飲めば
わたしは立ち去るのだよ
浄福な者たちの幸福のなかへとね
きみたちのもとには
もう留まらずに

だから
ソクラテスを安置するとか
ソクラテスの葬列に加わるとか
ソクラテスを埋葬するとか
そう表現することは過ちなのだと
ソクラテスは言う

 いいかね
 よきクリトンよ
 ことばは正しく使わないといけない
 それ自体で過ちを犯すことになるだけでなく
 魂に対しても
なにか害悪を及ぼしてしまうのだからね

魂に対しても…

魂とは…
それではなにか
魂の自然な性質とはなにか
自由にしたら
魂はどのように動くのか

魂が魂自身だけで考えるときには
魂はかなたの世界へ
純粋で
永遠で
不死の
おなじようなもののあるほうへ
赴いていくのだよ
魂は純粋に魂自身だけになり
おなじようなものとだけ関わり
さまようことを止め
永遠なるものと関わりながら
つねなる同一のあり方を保つ
魂はそういうものに触れるのだからね
そうして
魂のこの状態こそ
知恵と呼ばれるものではないか…

魂が
純粋に魂自身になれる
そんな状態にないうつせみの境遇では
むずかしく
むずかしくなく
むずかしい
むずかしくない
課題
理想
そうあれれば
そうであることができれば
の話

知恵…

魂が純粋に魂自身だけになり
おなじようなものとだけ関わって
さまようことを止め
永遠なるものと関わりながら
つねなる同一のあり方を保つ…

魂のこの状態こそ
知恵と呼ばれるもの…

知恵…




*『パイドン』からの引用は、既存の訳を参考にしながら、凝縮し、約めてある。プラトンの叙述は、必ずしも、簡潔適確とも言えないようなので。