家にあったのは額紫陽花。
外に出ても、
なぜか額紫陽花ばかりが目につく地域に子供の頃は住んでいて、
梅雨の季節になるたびに不満だった。
ふつうの紫陽花の玉のような咲き具合、
紫や濃紺や赤紫や、
あるいは、それらの系統の色が混ざったような色合いにあこがれて
学校の行き帰り、ちょっと多めに道草をして
見知らぬ家の庭先の立派なふつうの紫陽花の咲きようを
黙って見つめていたりした。
もっと大きくなって、ひとりでもう少し遠出ができるようになった頃、
ふつうの紫陽花があちこちに見られるので
梅雨の時期も楽しかった。
一日中を、なにをするでもない、
夕方になるまでぼんやりと過ごしながら、
ふつうの紫陽花の咲き乱れる中を歩いていたりした。
そんな時に額紫陽花に出会うと、
旧知のつまらないものにうっかり遭遇してしまったように、
あゝ、いやだ、辛気臭い、盛り下がってしまう、
とまで思って、
他のふつうの紫陽花のほうに、これ見よがしに目を向ける。
そうして、ふつうの紫陽花の姿だけを記憶に留め、
額紫陽花ばかりの住まいのほうへと帰って行く。
それが、今年になって、
額紫陽花にも、それなりの妙味を覚えるようになった。
いつのまにか、そうなっていたのか…
あの、物足りない、つぶつぶの薄青いひろがりにも、
それなりの“花”を感じている自分が、
感じることを、ようやくにか、許しはじめている自分が、いた。
なにより、ふつうの紫陽花にあこがれていた頃、
自分のまわりに満ちていた花だった。
懐旧のゆえ、とは思いたくない。
ふつうの紫陽花へのあこがれの思い出が、
額紫陽花をも、“花”と見るように、今の私にさせているのか…
堀口大学の訳したシャルル・クロスの詩句を思い出すと、
ほのかに、痛切さが、心に来る。
「かの女は森の花ざかりに死んで行った
「かの女は余所にもっと青い森のあることを知っていた
「もっと青い森」がふつうの紫陽花にあたるなら、
わたしは「もっと青い森」を、後年、たぶん存分に知った。
さほど青くない「森の花ざかり」に死んでいくことは、しなかった。
いま、かつての自分を幽閉していたかのような、
さほど青くはなかったあの「森」を思い出し、
あの森の「花ざかり」を思い出し、
わたしには、まったく満足のいかないものであっても、
あれはあれなりの、あの「森」の「花ざかり」であったか、
と、いくらかさびしく、慰撫してやろうとする。
なにを、慰撫するのか。
わたしをではなく、あの「森」にわたしが棄ててきた、
わたしそのものであるかのように信じ込まされそうになっていた、
わたしのものでなどまったくなかった運命を、である。