2018年6月26日火曜日

アァ、夏ノ巡査、マダマダ、若い夏ノ、jorro巡査ヨ…




イツノマニカ、歳ヲ取ッテシマッテ、イタ、ヨウダ、    ワタシ…

白イしゃつガ、美シイ
ナドト、
フト、思ウカラ…

暑イサナカ、金属ヲ軋ラセテ、止マル列車ガ、
イカニモ似ツカワシイ、ナドト、感動シ、立チ止ッテシマウ…

イツノマニカ、歳ヲ……

交番脇ノ網ふぇんすニ、
モウ、昼顔ガ、
小サナ花ヲ、ツケテイルノヲ、見タ

巡査ガじょうろデ、水ヲ撒イテヤッテイル

アノじょうろハ、ドコデ、買ッタノダロウ、
マサカ、東急はんずデハ、アルマイ
きゃんどぅーカ、だいそー、ソノアタリ、?…

じょうろハ、“如雨露”ト書ケバ、
チョット、面白イガ、ヤリ過ギナ、気モ、スル…

案外、片仮名デ書クノガ、
イチバン、イイ、カ、モ、シレ、ナイ…
葡萄牙語カラ、入ッタ、ソウナノダカラ、
Jorroガ、本当、ナノ、ラシイ…

イツノマニカ、歳ヲ、取ッテシマッテ、イタ、ヨウダ、   ワタシ…

Jorroデ水撒ク、巡査ヨ、
アァ、夏ノ巡査、
マダマダ、若い夏ノ、jorro巡査ヨ…



2018年6月24日日曜日

みな揃いも揃って茹でガエル状態になっているのだとは!



いま此処にあることの唯一無二性!
これを
まるで今さらながらに新発見したかのように称揚するのは
安手の新興宗教連中や精神世界さんたちや
スピ系ことスピリチュアル系たちの
お決まりの見得のひとつ

だから似たことは言いたくないのだけど
安倍政権の時代に遭遇してしまった世界史的唯一無二性には
毎日毎日
鳥肌が立つほどの臨在感に興奮してしまう!

これほど人びとひとりひとりから
よりよき公共構築への意志が溶け去ってしまって
格差の少なさをなんとか調整しようとか
論理のしっかり通った法整備や運用をしようとか
社会的動物にとっての魂であるはずの正義をつねに実現させようと
そんな気づかいや配慮がさっぱりと溶けてしまった
世にも稀な時代に遭遇してしまったとは!

目の前にネロ皇帝がいるかのような
ヘリオガバルス帝がいるかのような
性病で蕩けた体のルイ15世の統治下にあるかのような
なかなか経験できない特異な現象の中にいるのだとは!

歴史そのものの澱みのどろどろスープの中に
ニッポンジンみな揃いも揃って
茹でガエル状態になっているのだとは!



たとえばわたしが花という…


 
たっぷり10時間も眠って
脳の奥にあった空洞感覚もちょっと埋まって
しばらく
部屋の宙に鏡を空想してそれにじぶんを映してみていた

ない鏡で映すじぶんはもちろん此岸のからだじぶんではなく
かといって彼岸じぶんでもなく
(彼岸は仏教概念だが
(仏教は霊も魂も語っていない
(仏教で彼岸に行くのは
(じぶんのうちのなにだろう?
ない鏡に映るのに適合したじぶんなので
それが
安倍政権下のぐだぐだ蕩けた人びとにわかりのいいじぶんだとは
もちろん
言えそうもない

ところで
10時間ものあいだ見ていた強烈な夢で
じぶん意識はすっかり変わってしまったのだが
どう変わったかをつぶさに調べたくて
ない鏡を空想してじぶんを映そうとしてみていたのだ

いちおう註しておくが
空想はどんな現実よりも物質的に強固で存在性が強い

たとえばわたしが花という
マラルメが言った時に想定されていたのよりも
もっと
もっと
現代のひとならわきまえていなければならない




壊れるまで



1200円ほどだった安時計
(スポーツ用には
(ちょうどよい
電池替えを頼むと1600円也

こんなところまで
愚かさの極まってきた
時代
とは思うが

いちど自分のものになれば
値は万金

壊れるまで
1600円をくり返すさ



つねなる古物屋の店開き中



小説家の井上光晴がむかし
才能のある者が見出されないことなど絶対にない
どんな小編でも必ず見出される
と対談だか合評だかで言っていて
それほど世間の目というのは信頼できるものかと思いもしたが
いつのまにか
井上光晴自身もすっかり書店から消えてしまい
彼といっしょに話題にされることの多かった野間宏や
武田泰淳あたりさえ消えてしまい
村上春樹を賞に選んだ佐多稲子も消え
やはり群像新人賞で村上春樹を推した丸谷才一
エッセイではなんとか命脈を保ったものの
小説がつまらないと蓮実重彦から酷評されていたあの丸谷才一も消
ひと頃は文庫棚を席捲した丹羽文雄も文芸文庫以外からは消え
個人文庫コレクションが多量に全国に並んでいた遠藤周作も消え
毎年毎年の芥川賞受賞者のほとんどが
その後うまくは続かずに消えていくのを見続け
詩だの短歌だの俳句だのとなると
どれほど新聞文芸欄の知りあい担当者が頑張って記事を書こうとも
もう世間は虚無の大海のように大いなる無反応を示すだけなのを
つらつら長いこと見続けてきてみると
甘かったんだなァと思う
井上光晴は
社会自然主義とでも呼びたいようなあの作風は
中上健次が読まれ得ていた時代はまだ生き延びていても
村上春樹一辺倒の時代に入ると
もう古物屋にさえ置かれなくなってしまう運命となった

ところで余はいつも
井上光晴や野間宏や椎名麟三や梅崎春生あたりに熾烈な興味があるのだから
頭の中はつねなる古物屋の店開き中というわけかもしれない



夜はどの夜もいい夜



廊下にはあかりを点けていない
廊下に面した各部屋の扉はどれも開けてある
部屋から部屋へ
廊下にあかりを点けないまま移動し
また戻ってくる
じぶんの他には誰もいないのだから
もちろん誰とも話さない

今から20年ほど前まで
なにかを人生でなすべきだと思っていたし
なにをするべきかも
わかっていたつもりだった
今ではそういったことを失ってしまった
とか
今ではわからなくなってしまった
とか
そう洩らせば
なんだか昭和の頃の中間小説ふうの
安手のセンチメンタルにすぐなってしまう
渡辺淳一あたりで満足できる手合い向きの常套
宮本輝あたりもそうか
ロマンチックの文弱な親玉のような堀辰雄なら
もっと酷いのではないかと思いきや
彼の場合はなかなか
そう単純にセンチメンタルに陥りはしない
いわゆる純文学と大衆物との違いはこんなところにある
堀辰雄の一見センチメンタルっぽい雰囲気は
そう単純には読み解けない謎から立ち上っている
あの折口信夫が堀のために歌をこう読むのは
やはりただ事ではない
『菜穂子』の後 なほ大作のありけりと そらごとをだに 我に聞かせよ

むかし西麻布にあったラヴホテルでの逢瀬を
堀は書いているよね、『風立ちぬ』で?
そう話を向けてみて
そうそう、あれねぇ…と乗ってこれる人としか
話す気はなくなって
もう15年ほどは経つか…
堀があれを書いてから64年ほど経った後
彼が舞台に使った西麻布の谷の淵のマンションに親しんだことがあった
読んだだけの時は西麻布にあんなところがあるのかと思ったが
平成になっても地形はかわらぬまま残っていて
午前中も遅くになってから出ればいい日など
ベランダから谷を見ろして60年以上前の風景を想像したりした
文芸に関わるこんな話にうつつを抜かすのは
むかしむかしなら清談と言ったものだが
今はオタクとか物好きとしか呼ばれなくなってしまったか…

廊下にはあかりを点けていない
住んでいるのはちょっと大きな古い舘
廊下に面した各部屋の扉はどれも開けてあるから
忍び込んで来られたら
はじめは闇に戸惑われるかもしれないが
部屋から部屋と覗いてごらんになれば
きっとどこかにいるはずで
見つけたら
そっと部屋に入って来て
いい夜ですね…
とでも
静かに声をかけてもらいたい

夜はどの夜もいい夜
言い間違いをする心配はない



2018年6月21日木曜日

白いカフェで待つのがいい



白いカフェで待つのがいい

湿り気は
きょう、ことに薄い花びらの水中花のよう
たわむれに
これに出会わせるには
小さなめだかでも大きすぎる
もっともっと
小さなものをさがそう

待つのは
用事のあるだれかだったり
大事なひとだったり
あるいは
本当の
…などと形容のついた
じぶん
だったり

そういうのを待つのは
でも
もうやめてしまっている

待つ
直接目的語なしに
ひとりっきりで
居てもらわなければならない

だから思う
白いカフェで待つのがいい

内装も
ひとたちの肌も
髪も
目の色も
怪我したときに出る血も
コーヒーも
紙幣も貨幣も
窓から見える外の風景も
空も木々も
もちろん
信号も
みんな白い
そんなカフェ

白いカフェで待つのがいい




2018年6月20日水曜日

あまりに小さなわたくしの棲み処



蝶の羽から離れた
鱗粉の
ひとつの裏に
小さな土地を譲られたのは
よかった
そこに家を建ててもらっておいたのも
よかった

ついに地球の地面には落ちず
宇宙のどこへ
逸れていくのか
まるで
しばらく忘れていた無限のように
滞空したままの鱗粉

地球のだれにも
はじめから気づかれず
だれにも永遠に
見わけられることなしに
まるで
今しがた思い出した無限のように
滞空したまま
微細に動き続けていく
あまりに小さなわたくしの棲み処

小さくても大きくても
宇宙ではまったく同じことなのだから…と
まただれかが
姿も影もなしに
大きな宇宙のどこかで
つぶやいている



2018年6月17日日曜日

道の道というべきは真の道にあらず



茶器の展覧会に来て
しずしず
足を運びながら
見てまわる

人がいっぱいだが
しずかである
からにして

しずしず
足を運びながら
見てまわる

茶道には
誇れるぐらい
きれいさっぱり
なんの関心もないので
茶器の説明も
いい加減にしか見ない
せいぜい
いちいちの品の名を
瞥見する程度

茶室は好きであるが
亭主も
他の客人もおらず
茶も
釜も
煮える湯も
ないほうがよい

誰もいない
なにもない
畳だけの茶室に
しばらく座っていたりするのは
いいものである

紅葉の頃
そうしていたことがある
霙の午後
そうしていたことがある
炎暑の午前
そうしていたことがある
若葉の頃も
そうしていたことがある

それでいいではないか
と思う

異国の
埃と排気ガスの大通りを逸れて
空気のねっとりした路地で
コーヒー売りから一杯買って
小さな箱に腰を下して
汗の引くのを待ちながら
(コーヒーをだが)
飲んでいたこともある

展覧会のうすら闇の中で
そんなことを
思い出していた

人間到るところに茶室あり

になってはいけない

道の道というべきは真の道にあらず

徹底的な思想の分裂点があり
わたしは譲らない
無知な者たちはすぐに道にしたがる
わたしは老子と荘子の側に居続ける者なり

愚かな島国文化よ

道を捨てよ

できかける道も
すぐに
破壊し溶解せよ

われ
剣を投ぜんがために
来たれり
と言っていたおじさんも
いたな

ちょっと
言い過ぎだった
おじさん



本当の日本橋

メトロから
コレド日本橋に上って外へ出ると
どっちに行ったらいいのかしら
迷ってしまう

三越本店のほうへ行きたいのだけれど
昭和通りに出たのか
永代通りに出たのか
中央通りに出たのか
一瞬
わからない

一瞬どころか
二瞬も
三瞬も
わからない

なんどか来ているとはいっても
頻繁に来るわけでもないので
わからない

いつも
逆方向に行ってしまう
とんでもない方向へ
行ってしまう

日本橋を渡ればいいのだ
ようやく
方向の目印をつけるようにはなったが
それだって
どっちが日本橋か
はっきりしない時がある

日本橋に着いたって
橋のまわりが
あんなふう
つまらないというか
くすんでいるというか
B級景観というか
あんなふう

だから
渡りながら
これ
本当の日本橋か…?
いまでも
訝る

本当の日本橋は
どうやら
べつのところにあるようだ

わたしの場合



2018年6月14日木曜日

アスファルト愛

 
暑い日が続いて、ふと、
なにか大きなものがヒュッと終わるかのように、
涼しくなったある日のこと、
わたしはアスファルトに恋をした。

けれども、心臓のドキドキを直視したりはしないで、
あゝ、これが、
アスファルト愛、ってやつね、
と、ちゃんと冷静に対処。

S895星雲で流行っている、とかなんとか、
言われていたあれだな、
いつのまにか、銀河系の太陽系にまで、
感染がひろまってきたんだな…

そう思って、
これ、重病になる前に治さないといけないなぁ、
と、ちゃんと冷静に考えをめぐらした。

めぐらしたことは、
めぐらした、
んだ、
けど、
薬があるわけでもないし、
寝ていれば治るのかどうか、わからないし、
なにかの栄養が足りればいいのかどうか、
それもわからないしで、
ちゃんと冷静に対処しようにも、
そこで止まってしまった。

ま、地球での知などというものは、
こんな程度。

アスファルト愛は、さいわい、
ひどく、ぐんぐん昂進するわけでもなく、
けっこう穏やかに、ほわぁ~っと膨らんでいく感じで、
外に出るたび、どこのアスファルトを見ても、
ああああああああああああああああ…
と、見とれてしまう程度に止まってくれていて、
人目を気にしないといけない地上では、
どうにかこうにか、制御できる感じ。

じつは、アスファルトには、
ふたつとして同じ顔貌の部分はないと気づき、
なんと唯一無二なのォ!、おおおお!
などと、いつも心は高鳴り、
人がおらず、車も来ないところでは、
地面に腹ばいになって、
アスファルトに頬ずりを、よく、するようになった。
道路の真ん中に寝転がって、
大の字になっているのも大好きで、
世界中の大都市の、あの夜明け前の静かな時間、
だいたいの幹線道路では、もう、寝転び済み。

この程度の症状で済んでいるんだから、
たいしたこともない、と安心しているけれど、
ほんとうに、
これがいつか昂じてしまって、
あちこちのアスファルトを剥がして収集したくなってしまったら、
どうしようかなぁ、と
ほんのちょっと、
心配。



2018年6月12日火曜日

わたしのものでなどまったくなかった運命



家にあったのは額紫陽花。

外に出ても、
なぜか額紫陽花ばかりが目につく地域に子供の頃は住んでいて、
梅雨の季節になるたびに不満だった。
ふつうの紫陽花の玉のような咲き具合、
紫や濃紺や赤紫や、
あるいは、それらの系統の色が混ざったような色合いにあこがれて
学校の行き帰り、ちょっと多めに道草をして
見知らぬ家の庭先の立派なふつうの紫陽花の咲きようを
黙って見つめていたりした。
もっと大きくなって、ひとりでもう少し遠出ができるようになった頃、
ふつうの紫陽花があちこちに見られるので
梅雨の時期も楽しかった。
一日中を、なにをするでもない、
夕方になるまでぼんやりと過ごしながら、
ふつうの紫陽花の咲き乱れる中を歩いていたりした。
そんな時に額紫陽花に出会うと、
旧知のつまらないものにうっかり遭遇してしまったように、
あゝ、いやだ、辛気臭い、盛り下がってしまう、
とまで思って、
他のふつうの紫陽花のほうに、これ見よがしに目を向ける。
そうして、ふつうの紫陽花の姿だけを記憶に留め、
額紫陽花ばかりの住まいのほうへと帰って行く。

それが、今年になって、
額紫陽花にも、それなりの妙味を覚えるようになった。
いつのまにか、そうなっていたのか…
あの、物足りない、つぶつぶの薄青いひろがりにも、
それなりの“花”を感じている自分が、
感じることを、ようやくにか、許しはじめている自分が、いた。
なにより、ふつうの紫陽花にあこがれていた頃、
自分のまわりに満ちていた花だった。
懐旧のゆえ、とは思いたくない。
ふつうの紫陽花へのあこがれの思い出が、
額紫陽花をも、“花”と見るように、今の私にさせているのか…

堀口大学の訳したシャルル・クロスの詩句を思い出すと、
ほのかに、痛切さが、心に来る。
「かの女は森の花ざかりに死んで行った
「かの女は余所にもっと青い森のあることを知っていた

「もっと青い森」がふつうの紫陽花にあたるなら、
わたしは「もっと青い森」を、後年、たぶん存分に知った。
さほど青くない「森の花ざかり」に死んでいくことは、しなかった。
いま、かつての自分を幽閉していたかのような、
さほど青くはなかったあの「森」を思い出し、
あの森の「花ざかり」を思い出し、
わたしには、まったく満足のいかないものであっても、
あれはあれなりの、あの「森」の「花ざかり」であったか、
と、いくらかさびしく、慰撫してやろうとする。

なにを、慰撫するのか。
わたしをではなく、あの「森」にわたしが棄ててきた、
わたしそのものであるかのように信じ込まされそうになっていた、
わたしのものでなどまったくなかった運命を、である。