ラウテンクラヴィーア*といっても
細かい話になると、私、素人ゆえにわからない
バッハを大作曲家にする転機となった楽器だというし
マタイ受難曲もヨハネ受難曲も
ラウテンクラヴィーアを弾きながらバッハは指揮したともいう
“たったひとつの音の行方をどこまでも追って行く”姿勢は
この楽器との出会いから始まったのだともいう
これを復元して自ら演奏している山田貢のCD**は
神保町のササキレコード社で偶然見つけて買ったもので
かけてみれば誰のバッハ観もが大きく揺らぐようなやわらかな美し さの
十数年に一枚現われるかどうかというべき貴重な録音だった
神保町まで歩いて10分や15分のところに住むようになって
ひと月後くらいに見つけたこのCDは
住むことになった新たな地とその周辺からの小さな祝福とも思えた
むかし縁あって要町のチェンバロ奏者鍋島元子さんの家に招かれ
置かれていた様々なチェンバロの音色を聴かせてもらった
1、 2メートル以内でないと音のよく聴こえない繊細なものもあって
これほどの音のか弱さと
そのゆえに聴く者たちに強いられる接近とが
…いや、“近寄り”とが
弱さの不可思議なまでの底知れぬ強さと
楽器というものが揺らし起こす此岸一歩手前の
どこまでも無形のまゝの可能性を
かえって深く
まだ固まっていないゼリーの表面のような精神というものの表皮に
やわらかく
どぅる、どぅる、
と抉り記し得るかと思えた
グスタフ・ レオンハルトの弟子だった鍋島さんが佐賀鍋島家の血筋で
曾祖父も祖父も男爵、祖母は侯爵ニ条家の出身で
母方の曽祖父は西郷従道、曽祖伯父が西郷隆盛というのは
後になってから人づてに聞いた話だった
あの時いっしょに鍋島さんの家を訪ねた若いamieは
(日本語で若い「愛人」 と言えばニュアンスはずいぶん異なってしまう…)
ショパンやスクリャービンの練習に打ち込んでいたが
道玄坂にあったヤマハミュージック渋谷店***に楽譜を買いに行 った際
私の気まぐれな頼みに応じ店頭にあったピアノで
暗譜していたバッハのゴルトベルク変奏曲の4番までを弾いてくれ た
その後音楽の道を完全に棄てて
誰もが想像さえしなかったような四人の子の母に
彼女はなった
*Lautenclavier
**Mitsugu Yamada : J.S. Bach und das Lautenclavier, LiveNotes, 2010.
***道玄坂のヤマハミュージック渋谷店は2010年12月に閉 店した。2010年前後は私にとって多くのものが終わり、 全く別の生へ強制的に方向転換させられた年だった。
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