やつしやつして菰かぶるべき心がけ…
芭蕉書簡
必要があって
芭蕉の
全句集を読み直しはじめてみると
この人ひとりの存在によって
江戸期までの文芸の無数の星々が網の目となって繋がり
言葉と知のすべての星座が緊密に繋がって
ネットワークを形成していることに
やはり驚かされる
万葉以来の日本の文芸と
日本に入って来た限りのほぼすべての中国の文芸と
日本列島に展開されている各階層の民の暮らしの諸相とが
芭蕉というアプリから入れば
さまざまに感じとられ見てとれる
芭蕉とはそういう稀有の人であったのだと
今さらながらに
痛切に気づき直させられる
こんな芭蕉の核心にいきなり入り込むには
たとえば
学校の教科書などには採られない
「あくこその心もしらず梅の花」
などから見直すのもよく
「あくこそ」が紀貫之の幼名であることや
貫之といえば
「人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香に匂ひける」が
すぐに思い出されるので
「心もしらず」
とサッと引用してきつゝ
貫之の「心もしらず」と即座に翻しもし
人の心の変わりやすさも
それを嘆く貫之の心も
ともに
意に介さずに
花の兄として他の花に先駆けて
春を告げて咲き出で
昔に変わらず今も香り続ける梅を歌う
という
芸当を軽々と五七五の短さのなかでやって見せながら
貫之の幼名「あくこそ」によって
句作者と梅とのつきあいが幼時から
ながい時間を経つゝ
続いてきたことさえも示し
同時にこの「あくこそ」という幼名は
貫之が貫之になる以前の心性をも想起させるので
読み手の想像力は
まこと
四方八方に豊饒に差し向けられることになる
また
たとえば
「はれ物に柳のさはるしなへかな」
などはどうか
ちょっとでもなにか触れれば痛むような腫れものに
柳の枝葉の先が
さわるような
さわらないような
そんなイメージと感触を提供することで
春の柳の
やわらかくしなやかな撓みのさまを
読み手の微妙な痛感の記憶を通じて思わせようとする
去来は
実際に腫れものに柳が触れる句と解したそうだが
支考も丈草も許六も
腫れものを比喩として解した
後者の解釈に分はあるだろうが
いずれにしても読み手の痛感の記憶を梃にして
春の柳の枝葉のやわらかさに迫ろうとしたところは動かない
おそるべき芭蕉の
感性と無駄のない表現力ではないか
と思わされる
他にも読まねばならない本を何冊も携え
ひと日
郊外に向かう列車に乗って
ゆくりなくも小さな陽だまりとなったボックス席にひとり
芭蕉の句集を繙いて
あっちの季節
こっちの季節
飛び石ならぬ飛びページ
飛び季節
飛び句
しながら
どんどんと吸い込まれていくような集中の発生に
そのまま乗せられていく
幸福
あゝ他にはもうなんにも読みたくない
というような
あゝ他にはもうなんにも読まなくていい
というような
あゝ他にはもう人生でなんにもしなくていい
というような
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