2019年2月22日金曜日

まことにあさましく恐ろしかりける所かな、とく夜の明よかし……


  
物神崇拝。偶像崇拝。なにも今に始まったことではなく、シナイ山から下りてきたモーゼが人民の狂乱を見て絶望した頃からの人界のならいだが、街を歩いてもテレビをつけても新聞雑誌の類を開いてもインターネットに接続した端末のモニターにも、百鬼夜行のごとくに商品広告ばかりがしゃしゃり出続ける。それらはつねに多数の、というより無数の幇間たち、すなわちアイドル、俳優、歌い手、アーティスト、ライター、マスコミ、MCとか肩書きされる連中を、ちょうど街中に屯する少女や少女もどきたちがバッグに吊しているキャラクターだの動物の毛だの尻尾だののように伴っていて、これら、商品という真の主体に唯々諾々と付き従うマスコットたちは、人民をひとりも洩らさずにどれかの商品へ、さらに次の、次の次の商品へと誘導し続けるべく、資本主義リバイアサンのさらなる繁栄のための工作員としての任務を遂行し続けている。一見、いかにも現代の新鮮さ、真新しさ、爽やかさを帯びているかに見えつつも、それら、アイドル、俳優、歌い手、アーティスト、ライター、マスコミ、MCとか肩書きされる連中をよくよくつぶさに眺め直そうと近くて見れば、目一つつきたりなど、様々なり。人にもあらず、あさましきものどもなりけり。あるいは角おひたり。頭もえもいはず恐ろしげなるものどもなり。
まことにあさましく恐ろしかりける所かな、とく夜の明よかし、去なん、と思ふに、からうじて夜明たり……と、『宇治拾遺物語』巻一・十七「修行者逢百鬼夜行事」の修行者の場合は一夜の百鬼夜行から解放されるのだが、平安期の闇を収集して鎌倉期に成立したこの物語集の人物とは違い平成期のわれわれの絡め取られようは絶望的に深く込み入っていて、いつ夜が明けるとも思われない。



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