2023年4月5日水曜日

「美しいイソウド」と「白い手のイソウド」


 

ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』は好きだし

たとえばクナッパーツブッシュの演奏で

イゾルデの「愛の死」を聴かされでもすれば

やはりこの世でいちばんの芸術は

ワーグナーしかあり得ないなどと思いもするが

それでもアーサー王伝説の中の

あのトリスタンの物語群を思い出せば

オペラにおけるワーグナーの簡略化のしかたは

やはりずいぶん興の削がれるものに思える

 

トリスタンことトリストラムはブルターニュで

反乱を起こした臣下たちと戦うホウエル王を助け

王の軍隊を率いて勝利に導いた

王は感謝して自分の娘を嫁としてほしいと頼むが

この美しい教養高い王女の名もまた

トリストラムのあの運命の愛の相手と同じ

イゾルデことイソウドという名で

先のイソウドが「美しいイソウド」と呼ばれるのに対し

こちらのほうは「白い手のイソウド」と呼ばれた

 

同じ名の美女が目の前に現われたことは

トリストラムにとっては煩悶の新たな種となったが

「美しいイソウド」のほうは伯父のマーク王の妻で

堂々と愛を遂げられる相手ではないのに対し

新たに現われた「白い手のイソウド」のほうは

なんの隠し立ての必要もなく結ばれうる相手だった

トリストラムと「白い手のイソウド」は結婚し

ここにトリストラムの生涯ではじつに稀な

平穏で幸福に満ちた数ヶ月が送られることになる

トリストラムを「美しいイソウド」に結びつけた

あの魔法の霊薬の力さえ弱まるかのような日々が

ホウエル王の宮廷で過ごされることとなった

 

しかしまた敵が勢いを盛り返してきて戦争となり

トリストラムも先陣を切って戦うことになる

城壁を梯子で上ろうとしていた時に

上から岩を落されたのがトリストラムの頭に当たり

下に落下して彼は気を失ってしまった

彼は妻である「白い手のイソウド」の元へ運ばれ

イソウドに外科治療の心得があったことから

トリストラムは治療されてとりあえず命は救われる

「白い手のイソウド」にトリストラムは感謝し

その感謝は真の愛情へと育ち始めていった

とはいえひとたびはよくなるかに見えた傷が

だんだんと悪化していくようになった

 

トリストラムが以前にも命の危機に見舞われた時

「美しいイソウド」が献身的な看護をして

みごとトリストラムを快癒させたではないかと

トリストラムの老いた従者は語ったので

「美しいイソウド」をコーンウォールから呼び寄せ

自分を治療させるようにしたいと

トリストラムは「白い手のイソウド」に頼んだ

「白い手のイソウド」はこれを受け入れ

航海術に長けた家来ゲスネズを

コーンウォールに派遣することにする

 

トリスタンとイゾルデとマルケ王の三角関係で

ワーグナーは彼のオペラを構成していったが

彼が作劇上処理しきれず維持できなかったのは

名前が同じでありながらべつ人格の

もうひとり「白い手のイソウド」が加わったかたちでの

四人からなる複雑な情念関係劇である

源となるトリスタン伝説のほうは

はるかに複雑で多層的な情念劇となっていた

 

「美しいイソウド」を連れて来れた場合には

船に白い帆を張って港に入ってくることとし

もし「美しいイソウド」が来るのを断った場合には

黒い帆を張って帰港させることに決めて

トリストラムは「美しいイソウド」を待つ

「美しいイソウド」はブルターニュに無事に着くのだが

トリストラムとこのイソウドを会わせれば

自分にとって決定的な不幸を招来しかねないと思い

「白い手のイソウド」は見張りの侍女をして

帆は黒だったとトリストラムに報告させ

深く悲しんだトリストラムはそこで息を引き取ってしまう

 

はるばるブルターニュまで船で来て上陸するやいなや

「美しいイソウド」はトリストラムの死を告げられ

絶え入らんばかりのありさまでトリストラムの部屋まで行くと

そこでトリストラムを両腕に抱きかかえながら

悲しみのあまり自らも息を引き取ることになる

 

トリストラムと「美しいイソウド」の遺体は

トリストラムが使っていた名剣とともに船に乗せられ

コーンウォールに送られていった

トリストラムはしたためておいた書状の中で

伯父であるマーク王に赦しを乞い

トリストラムとイソウドの愛の発端となった

魔法の妙薬のことを語っておいたので

マーク王はすべてを理解してふたりを赦し

両者の遺体を王家の礼拝所に埋葬することとした

トリストラムの墓からはやがてツタが生え出て

「美しいイソウド」の墓に伸びていった

何度も切り倒されてもさらに強く生え出ては

「美しいイソウド」の墓へ伸びていった

ツタは今でもふたりの墓の上に伸びひろがり

緑陰を与えていると言われている

 

哀れな「白い手のイソウド」のほうはどうなったか?

これについては伝承が見当たらないのだが

うまく探せばどこかに彼女の後日談が見つかるだろうか?

静かな感動を書きあらわすのに適した現代小説にこそ

「白い手のイソウド」の物語は向いているかもしれないが

もしオペラにするとすればワーグナーではなく

プッチーニに扱ってもらったほうがいいかもしれない






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