花見で混んでいるところに行くと
ぶつからないようにゆっくり歩かねばならなくなって
どうしてもまわりの人たちの話が耳に入ってくる
そうして気づかされるのは
せっかくの満開の桜を見に来ているのに
多くの人がなにかとせせこましい話をしがちだということ
現代の人間はボーッと桜を見るのが苦手なので
写真を撮ったりビデオを撮ったりばかりしているのだが
それも黙って集中して撮っているのではなく
すぐに撮影上の技術論めいたことを話したがる
ここからあっちも入れて撮ったほうがいいとか
どんなモードで撮ったほうがいいかとか
もうすこし明るめにしたりコントラストをつけたりとか
あくまでシロウトの技術論なのだが
とにかくなんやかやとしゃべり続けている
耳に入ってくることの多いもうひとつの話題は
いわば比較論とでもいうもので
ここの桜はこんなふうだがどこそこの桜はどうだったとか
あそこの桜の本数はどうだったがここは何本ぐらいなのかとか
ここもきれいだけれどあそこも圧倒的なきれいさだったとか
せっかく目の前に「ここ」の桜があるというのに
他との観念的な比較を一時も止めずに比較に注意力を散らしている
技術論議も比較論議も目の前の桜を引き立てんがための
一種のレトリックであり装飾のようなものなのだろうが
桜満開の現場に来ているにしてはもったいない態度に思える
気の利いた言葉になどすぐに移しかえたりできず
ただただ驚かされてしまって
しばらくはぼんやりと見惚れるとか聞き惚れるとか
そんなありかたをするほうが
どれほど豊かなことだろうかと思う
幼い子を失った
中原中也の春の詩を思い出す
また来ん春……
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
「何とも云はず 眺めてた」子を
眺めていた中也
子とともに
「此の世の光のたゞ中に」
いて
こういうところが
詩人だなあ
と思う
あらまほしき
詩人
こうあってほしいなあと
思わされる
詩人
なんやかや
しゃべりちらかし続けたり
小利口な評や
批評めいたことや
雑学知識や
断定など
世間に生きる人間なら
だれでもするもので
できるもので
し続けているものだが
言葉を失って
「何とも云はず 眺めてた」子を
ともに
「此の世の光のたゞ中に
立つて」
じぶんも小利口な言葉など失って
眺めていてやるのは
あらまほしき
詩人
にしか
できることではない