2025年4月8日火曜日

あらまほしき詩人

 

 

 

花見で混んでいるところに行くと

ぶつからないようにゆっくり歩かねばならなくなって

どうしてもまわりの人たちの話が耳に入ってくる

 

そうして気づかされるのは

せっかくの満開の桜を見に来ているのに

多くの人がなにかとせせこましい話をしがちだということ

 

現代の人間はボーッと桜を見るのが苦手なので

写真を撮ったりビデオを撮ったりばかりしているのだが

それも黙って集中して撮っているのではなく

すぐに撮影上の技術論めいたことを話したがる

ここからあっちも入れて撮ったほうがいいとか

どんなモードで撮ったほうがいいかとか

もうすこし明るめにしたりコントラストをつけたりとか

あくまでシロウトの技術論なのだが

とにかくなんやかやとしゃべり続けている

 

耳に入ってくることの多いもうひとつの話題は

いわば比較論とでもいうもので

ここの桜はこんなふうだがどこそこの桜はどうだったとか

あそこの桜の本数はどうだったがここは何本ぐらいなのかとか

ここもきれいだけれどあそこも圧倒的なきれいさだったとか

せっかく目の前に「ここ」の桜があるというのに

他との観念的な比較を一時も止めずに比較に注意力を散らしている

 

技術論議も比較論議も目の前の桜を引き立てんがための

一種のレトリックであり装飾のようなものなのだろうが

桜満開の現場に来ているにしてはもったいない態度に思える

 

気の利いた言葉になどすぐに移しかえたりできず

ただただ驚かされてしまって

しばらくはぼんやりと見惚れるとか聞き惚れるとか

そんなありかたをするほうが

どれほど豊かなことだろうかと思う

 

幼い子を失った

中原中也の春の詩を思い出す

 

 

また来ん春……

 

また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない

 

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた

 

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

 

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……

 

 

「何とも云はず 眺めてた」子を

眺めていた中也

子とともに

「此の世の光のたゞ中に」

いて

 

こういうところが

詩人だなあ

と思う

 

あらまほしき

詩人

 

こうあってほしいなあと

思わされる

詩人

 

なんやかや

しゃべりちらかし続けたり

小利口な評や

批評めいたことや

雑学知識や

断定など

世間に生きる人間なら

だれでもするもので

できるもので

し続けているものだが

 

言葉を失って

「何とも云はず 眺めてた」子を

ともに

「此の世の光のたゞ中に
立つて」

じぶんも小利口な言葉など失って

眺めていてやるのは

あらまほしき

詩人

にしか

できることではない






2025年4月7日月曜日

めらめらと

 

 

 

 

奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし

たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ

 『平家物語』

 

 

 

 

 

千鳥ヶ淵の桜の満開のなか

花見しに来た人びとも満開のなか

思えてならなかったのは

1945年の3月10日なんかに大空襲をせずに

桜で満開の東京を焼き尽くしたら

アメリカ軍もなかなか

風情がある

というものだったろうにねェ

ということだった

 

満開の桜で埋めつくされた隅田川沿いに

M47焼夷爆弾やM50焼夷弾やM69焼夷弾や

いまはクラスター爆弾と呼ばれるE46-500ポンド収束爆弾などが

散る桜の花びらにも負けじと多量に

降り注いだのだとしたら

桜とともに散るのが大好きな日本人には

ちょいと粋な死の燃え上がりだったろうにねェ

と思えてならなかった

 

  ♪咲いた花なら

散るのは覚悟

 

と『同期の桜』にあるように

 

  ♪みごと散りましょ

国のため

 

とあるように

 

ところがアメリカ軍は

花を持たせじと

まだ桜が蕾の頃の3月10日に

焼き尽くしに来たのだった

隅田川沿いの桜木たちは

まだ蕾のまま

焼き尽くされていった

 

こんなことが思えてならなかった

今年の千鳥ヶ淵の

満開の

桜の風景と

ゆるゆると花見して進む

たくさんの人びとの姿

 

どちらもこれから

めらめらと

燃え上がるように思えてならなかった

 

めらめらと

にっぽんというものの

終わりを

 

80年ばかしの

たまたまの

平穏さの消え失せていく

時を

 

 

 

 

*『同期の桜』

https://www.youtube.com/watch?v=sdUrucGfoH4&t=10s

 

 

 



霊魂は体から離れるのか?


 

 

 

夢は映像だ

と安易に断じるひともいるが

映像などない

言葉や考えだけの夢も

わたしはよく見る

 

きのう

目覚める前に見ていた夢では

寝ているあいだに霊魂が体を離れる

という考え方への批判を

夢の中で考えていた

 

霊魂は人間存在の本体と考えられており

それは人間存在のすべてを統括し

回復させ進歩させると考えられがちだが

本当だろうか?

と夢の中で疑っていた

 

疲弊したり

病気になったり

怪我をしたりした時には

とにかく寝て休んでいろと人間は勧められる

確かにそうして回復していくのだが

もし寝ている間に霊魂が体を離れるのなら

体を癒やしたり回復させるのは

本体と目される霊魂の仕事ではないことになる

体自身が体を癒やし回復させることになり

体には体の高度な霊的能力があることになる

あるいは体には間断なき自己治癒の働きがあることになる

 

もし体をも癒やす力が霊魂のみにあるのだとすれば

眠る時には霊魂は体を離れてはならないということになり

神霊系で安易に語られる霊魂と体の分離説には

かなり欠陥があるものと再考しなければならない

 

こんなことを目覚める直前まで考えていたのだが

霊魂がじつは体から容易には分離しないと考えるのも

けっこう楽しい説のように思われた

霊魂というものをもっと深く考えるようにすると

肉体から離脱したり戻ったりする見方をしなくてよくなる

肉体そのものが本来物質でなどないことは

素粒子論から考えていけば当然のことで

肉体自体がもともと霊魂のようなものなのだから

霊魂だけがそこから分離するような考え方はおかしい

 

こんなことを納得いくまで考えて起きたのだが

なんと九時間も寝ていたことに気づいた

 

 





もうくっつきなどしないのに


 

 

    Et in Arcadia ego

   Nicolas Poussin

 

 


 

世の

どこに起こることにも

もう心は惹かれぬ

 

きみの

彼の

彼女の

近ごろの考えの

変化にも

あるいは堕落にも

飛躍にも

 

むしろ

ずいぶん遠いところの

少年が愛ではじめた

珍しい昆虫の

今後の育て方についての

小さな悩みになど

心はちょっと

惹かれたりする

 

有名な億万長者のまだまだ若い歌手が

ドラッグ中毒になってしまって

わけのわからぬことをしゃべり続けながら

たえず体を引き攣らせて

踊っているような

震えているような

頼りない姿を

おとといはXで見た

 

昨日はX

空爆の続くガザの

もはや病院とも言えないどこかの

町集会所のようなところへ

怪我をした人たちが運び込まれているスマホ動画を

爆撃されてない東京のぼくの部屋で

体を椅子にずいぶんだらしなく鎮めた恰好で

部屋の明かりも消して

深夜に長々と見続けていた

怪我した人たちが運び込まれる部屋には

もはやベッドもないし

医者も看護師もいなくて

素人の普通の人たちがなんとか手を尽くして

出血を止めようとしたり

千切れた腕や脚を

もうくっつきなどしないのに

付け根の近くに近づけておこうとしている

 

この動画は

知りあいにも見せたく思ったので

LINEに載せて送ろうとしたら

LINE上では「見られない」と表示が出て

諦めざるを得なかった

ガザで千切れた腕や脚のように

LINEで動画を送ろうとするぼくの意志も

千切られてしまった

 

日本各地では

桜がさまざまに満開を迎えていて

オオタニショウヘイよりも人びとの目を集める桜たちが

毎年恒例の日本人向けドラッグとして

たいへんな威力を発揮している

 

世界じゅうで花の便りが行き交い

春の到来を楽しむ散策やハイキングの映像が届き

人びとは見飽きた驚きや感動の示し方をあいもかわらずくり返し

たまたまその瞬間その場で死んでいない偶然を

明るくきらきらと輝かせて

まるで平和のようだな

などとぼくは

遠い遠いアルカディアを思い出してしまう

知りもしないのに

よく知っていたかのような

アルカディア

 

そうして

同時に思い出す

「私は幸福に馴れていない人間である」*

という

レイテ島の戦闘で

極限状況を生きのびた

大岡昇平の言葉も

 

 

 

*『鎮魂歌』





旅はもう旅とも呼べぬ旅



 

脇道や寄り道やまわり道は

しばしば

脇未知や寄り未知でまわり未知で

ふいの深みに入り込む

恰好の扉や入り口であったりもするものの

深みをそのまま価値と信じた

若さのゆえの心の浅さも

ところどころ干からびてくる頃には

脇道や寄り道やまわり道のどれもこれもが

じつはただの

脇道や寄り道やまわり道と呼ぶべきものに過ぎなかったと

散りはじめる桜の花びらのひとつひとつのように

はらはらとわかってくる

本道に帰ろう!

幹線道路に戻ろう!

などと思う気概さえもはらはらと

見ようによってはうつくしく

ひたすら儚く散りつづけて

旅はもう旅とも呼べぬ旅

若ければ底知れぬ魅力もあるさまよいも

もはや果ての果て

かつて此処にはわたくしというものありきと

胸や頭に触れてみても

いずれ焼かれて捲れ上がっていく肌が

まだ温もりを保って

いくらか皮脂を湛えてあるばかり

 

 





あなたへ

 


 

いまという瞬間の偶然の顔を

いまのあなたをまったく知りもしない

いまのあなたをすっかり忘却し切った

いまのあなたとまるで縁がないとも言えそうな

来世のあなたへむけて

送ろうとでも

いうのか

 

自撮りするひとよ

 

自撮りし続けるひとよ

 

いまだけの満開の桜を背景にして

いまのあなたがどうにか許容できるあなたの像をこしらえて

いまのあなたではないあなたへ

まだ出現していない可能性と蓋然性のなかに

あるのかもしれず

ないのかもしれない

あなたへ

 





今日は

 

 

 

咲きみちた

桜のながい並木の続く下を

ゆるゆる

進む

花見客たちの

楽しみぐあいを

愉しんで

わたしのまなざしも

わたしというまなざしも

流れて行った

桜の精たちのひとりに

しのび入ったように

迎えられたかのように

今日は