2025年4月3日木曜日

あのマラルメが!

 


 

マラルメが

23歳の若き日の冬のことだが……)

「凍てつくような、いやな風のために

散歩もできないので、

わが憐れな脳髄が仕事を私に禁止するとき、

私は家にいて、

何をしてよいかわからなくなる」

友人カザリスへの手紙に

書いたことがあった

「鏡に映る自分のぼやけた生気のない顔を見ると、

鏡の前から後ずさりしてしまう。

自分が空虚だと感じて泣くこともあるし、

頑として白い、わが紙の上に、

ただの一語も書きつけることができない。」

とも

書いていた

 

あのマラルメが!

 

この手紙のすべてを

引用しておこう

 

 

アンリ・カザリス宛

トゥルノン、木曜日夜[一八六五年一月]

 

アンリ、私は従来、夜の時間を仕事に捧げてきた。だから、ひどい偏頭痛にこの幸福を奪われてもなお、筆を手にしないでは、ベッドに入る決心もつきかねる次第だ。君に一筆走り書きすることにした。

――私は悲しいのだ。凍てつくような、いやな風のために散歩もできないので、わが憐れな脳髄が仕事を私に禁止するとき、私は家にいて、何をしてよいかわからなくなる。
 それに、自己嫌悪だ。私は鏡に映る自分のぼやけた生気のない顔を見ると、鏡の前から後ずさりしてしまう。自分が空虚だと感じて泣くこともあるし、頑として白い、わが紙の上に、ただの一語も書きつけることができない。
 自分の愛する人々は皆、光と花々に囲まれ、傑作をものする年齢に生きているというのに、二十三歳にして老朽し、窮しようとは私もひとかどの者であった、たとい私が何ものをも遺さなかったとしても、ひとり責めらるべきは私の命を奪った運命のみである、と、君たち皆に信じさせ得たかも知れぬ死という手段さえも、持っていないとは!
 たしかに、あらゆることが与って、私を無感応におとしいれた。優柔不断な私には、あらゆる度外れの刺戟が必要だった。熱っぽくあおり立てるようなことを言う友人たちから受ける刺戟、絵画から、音楽から、騒音から、生活から受ける、過度の刺戟が必要だったのだ。この世に避けるべきものが一つあるとすれば、それは、強者のみを勢いづける孤独というものだった。ところが私は、自然と共にあることもなく、醜悪な土地で、並外れた孤独の人身御供となっているのだ。
 半月も外出をしないと、私は、つい鼻先にある学校と、全く陰気くさいわが家とで、暮らすことになる。だれかに話しかけようと口を開くことも、絶えてない。君にはわかってもらえるだろうか。マリーがいるではないか、と君は言うかも知れぬ。マリーは、しかし私自身なのだ。彼女のドイツ女らしい眼のなかに、私は自分自身をふたたび見るのだ。それに、彼女自身も、私同様、無為に日を送っている。ジュヌヴィエーヴは、しばらくの間なら抱いてみるのもよい。が、その後は?
 何ごとかを意志することを、かつて知らなかった私だが、しばらく前から、夜を徹して仕事をすることを学んで、わが惨めな肉体、 唇は垂れ下り、首はきちんと立っていられず肩にかしぐか胸に落ちかかる程、私は無気力なのだーーこの惨めな肉体に活を入れよう、と決意している。ところが、期待と渇望の一日が暮れて、ヤコブの神聖な一刻が、理想との闘いの時が、やって来ると、私には、二つの語を書き並べる力も残ってはいないのだ。しかも、あすの日とて、ことは同じなのだ。
 これが私の生活を毒している。こんな屈辱感の後では、マリーやジュヌヴィエーヴを幸福な気持で眺め得るだけの心の平静さなど、私にはもはやないのだ。友人たちをさえも、君たち皆をさえも、私は、裁判官のように怖れている。
 しかし、このような歎きは、君にとってさえ、聞き辛いことと思う。やめよう。ただし、私を責めないでもらいたい。偉大な天才、 峻厳な思想家、学究の人ならば、私同様の孤独の中にも、補佐薬を見出すでもあろうが、憐れな詩人は、詩人以外の何ものでもない詩人、つまり、さまざまの感覚の指がかき鳴らすがままに鳴り響くこの楽器は、何ものも自分を感動させぬ環境にあっては、沈黙するのだ。次いで、その絃はゆるみ、埃がつもって忘れ去られる。

 

 ご機嫌よう。私たちは三人して君を抱擁しょう。

 マリーは疲れているし、

 ジュヌヴィエーヴは、かわいそうに、風邪だ、夜通し泣いている。

                     ステファヌ

 

 

マラルメの詩は

魅力的ながら

フランス語原詩は

どこもかしこも

文法的にも

意味的にも

パズルのようで

いろいろな意味で読みづらく

心惹かれる愛好者は

吉田健一がそうであったように

まずは暗誦してしまう

というのが

最良のつき合い方かもしれない

 

しかし

マラルメ自身の生活は

彼の詩をつらく感じる人たちにも

おそらく

もっとおもしろい

詩作を続ける方便として

中学の英語教師となることを選んだものの

低い地位や低収入のゆえに

最初から家族には反対されるし

妻となるドイツ人マリーとの恋愛の際にも

貧困を憂いている

裁判所判事のドイツ語家庭教師だったマリーとは

ロンドンへむけて逃避行もしており

着いて早々に病臥したり

盗難に遭ったりと

詩作からは想像もつかない冒険が

マラルメの人生にもあった

 

18651月のこの手紙の翻訳は

マラルメ学者の松室三郎によるものだが

松室先生のマラルメ講義には

大学時代に毎週顔を出していた時期があった

やや額が後退しはじめていて

だいぶ白髪が多くなってきており

いつも茶系の温かみのある地味なスーツ姿で

(たしかワイシャツはつねに白だった)

温厚な性格と語り口で

緻密な読解や解釈を続けるのだが

他の人の解釈を例に挙げて過ちを指摘し

よりふさわしい解釈を語る時など

時どき昂ぶった口調になることもあった

だいたいは5人や6人ほど

多くても

せいぜい10人ほどしか集まらない

小さな教室での毎週の時間が

フランス文学というものの神髄の降臨する時間のようで

貴重にも感じられれば

不思議な幸福感のある隠れ処のようでもあった

 

その教室のある校舎は

廊下も板敷きなら教室内も板敷きで

歩くと木の音がすることがあった

コンクリートやリノリウムなどとは違って

板敷きの上を歩く時は

学生は緊張して

少しでも音を立てないようにと

心がけたものだった

 

講義が終わって

荷物をバッグに仕舞うのに少し手間取って

ひとりだけ

最後に

板敷きの廊下に出て行く時

晩秋の頃など

いわく言いがたい圧倒的な憂愁があった

 

親しい友らは

松室先生のマラルメには

敬遠して顔を出したりしないので

校舎を出て行く時は

いつも

ひとりだった

 

大学の門を出て

駅のほうへ向かってしばらく行くと

学生のたむろする安めのコーヒー店があって

そこではふたつ丸いソファがあり

押しくら饅頭のようにピッタリ寄り合って座りながら

いつも10人から15人ぐらいが

しゃべりながらコーヒーを飲んでいたり

ひとり黙って本を読みながら飲んでいたり

中には立って飲んでいる人もいた

たしかブレンドが一杯150円ほどだったのではなかったか?

コーヒー豆を売る店が

客寄せに安価にブレンドを提供していたのだった

 

松室先生のマラルメの後も

そのコーヒー店を覗いてみて

だれか友だちがいれば寄っていき

いっしょに一杯飲んで

あれやこれやの文学話や哲学話をしたものだが

話が長くなるようなら

他のもっとちゃんとした喫茶店に移って

モカだのマンダリンだの

キリマンジャロだのと

ちゃんとしたものを頼んで

閉店近くまで話したりするのだった

 

不思議な充実した時間の包みのなかに

すっぽりくるまれているようで

――というよりも

時間の流れというものがまるでないような

分厚い透明な球のなかに居続けているようだった

 

むなしさもなく

苦しみもなく

おもしろいことばかりで

知りたいことばかりで

学びたいことばかりで

ただひたすら青二才であった






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