2019年7月15日月曜日

遠つ小島は色くれにけり




人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は
後鳥羽院



夕方の二時間ほどをウォーキングに費やすのは
なんとなしに世捨てによく似ているといつも思ってきたが
いや
まさに世捨てそのものだと今宵は確信が行ったようだった



    暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
     和泉式部



気にかかっている本も読まずにただ歩くのであり
評判の映画や演劇にも行かずにただ歩くのであり
れいわ新撰組の演説を聞きにも行かずにただ歩くのであり
整理しなければならないトランクルームにも行かずにただ歩くのであり
細切れ時間を見つけては掃除すべき箇所も無視してただ歩くのであ
熟考して分析やまとめをしたい幾つもの問題を放り出してただ歩くのであり
いくらも目にとまるちょっと美しい風景をあまり撮らずにただ歩くのだから



世の中はなにか常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる
よみ人しらず



ウォーキングであれジョギングであれ
霧雨や小雨がときおり降る道をずんずん進んでいるあいだは
安倍晋三であろうが山本太郎であろうが大西つねきであろうが
たいした違いがないように遠く遠く感じられてくるばかりか
自分がやるべきものとされているあれやこれやの仕事さえ
どうでもよい他人事のように遠く遠く感じられてきてしまう
こう表現してしまうと微妙で危険な陥穽がぱっくり口を開けるわけ
安倍晋三と山本太郎や大西つねきとの違いが同時にくっきり見えてもくるし
凄まじいまでのたいした違いがありありと角膜に滲みてくるようでもある
自分がやるべきものとされているあれやこれやの仕事の効率的な段取りが
どうでもよい他人事のように客観的に冷静に見取り図として掴めてくる
いわゆるブンガクとやらは
それも娯楽系というか安楽提供系というか
花よ蝶よ系というか
ようするにアルトーを経由していないどころかする気もない系のブンゲイは
遠く遠く…などと言うと本当に遙かな無関係風味かと過つのだが
遠く遠く…とはもちろん最接近という意味でしか
使われるわけはないじゃないか、バカ野郎
言葉っていうものはつねに二義三義以上の加重をかけて使うべきもので
それを文藝っていうわけだったじゃねえか、バカ野郎



わすれては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見むとは
在原業平



それにしても
夕暮れの東京の早足でのウォーキングはわびしい
ウォーキングがわびしいのではなくて風景がどこもわびしい
…などと言うと、また、
現代のわびしさとか東京のわびしさとかに引き込んで行きたがる
誤読礼賛連中がいるから困る
言っておくが東京以外のニッポンははるかにわびしい
現代でない過去のどの時代も現代よりもはるかにわびしかった
1980年代のわびしさにわたしは崩おれそうであった
1950年代や1960年代のわびしさにはションベンの匂いが染みていた
2010年のわびしさにはほとほと耐えかねていたので
ノーテンキな国民の愚かしさに反吐が出続けで
この国などすぐにも崩れるぞ
崩れてしまえ
と呪詛の言葉を放ちながら日本中を旅していたら
ほんとうに3月11日に小さな滅びの日は来たのであった



ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
大津皇子



わたしはいま2010年とよく似た空気を感じているので
ああ、また崩れがやってくることになるな
と確信しているばかりか、どのあたりに来るか予感を持っているのだが
それは発言しないようにしておいている



夏の夜はまだ宵ながらあけぬるを雲のいづこに月やどるらむ
清原深養父



わびしくない夕暮れを見せてくれる土地はどこにある?
とわたしは思って歩き続けて何十年にもなるが
どうやら地球というところがわびしさから成っている場所なのらし
ああ、こここそは!
などという土地に行き当たったことは一度としてない



偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし
よみ人しらず



わびしさを一種の陶酔境として発酵熟成させるように
この列島のいにしえの人々のように
やはり努めるべきなのであろうか



波の上にうつる夕日の影はあれど遠つ小島は色くれにけり
京極為兼








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