2019年7月7日日曜日

なぜ、岩槻



警察はすでに
熱海にむけて出発したらしい
藤井貞和「水生地下」in「日本の詩はどこにあるか」


東京都荒川区東尾久の和菓子店の冷蔵庫から女子大生の遺体発見、というニュースをスマホのニュースアプリで見る。もちろん、今さら殺人事件にいちいち驚きもしないので、格別の興味も惹かれない。その記事を読み終えもせずに、「こういうのは、たいてい、父親が犯人なものだよ」と、一緒にいた人にはしゃべって、スマホを閉じる。

数時間後、失踪した父親の行方を警察が追っているという続報を、やはりスマホのニュースでチラッと見る。「ほら、やっぱり…」と、短く脳内で言語化してみたものの、やはり、それ以上興味を惹かれるわけでもない。ニュース画面を閉じる。

翌日、父親の和菓子職人がさいたま市で首を吊って死んでいるのが発見された、というニュースをスマホのニュースサイトで見る。「まぁ、やはり、結末はこんなところだろう」と小さく納得する。さいたま市のどこだったのだろう、ということだけが、なぜか、気になる。それをもう少し詳しく報じているニュースはないものかと、ちょっとネット上を探してみる。なかなか見当たらない。ようやく、産経新聞のニュースが「さいたま市岩槻区の河川敷で木に首をつっている木津さんの父親」と報じているのを読み得て、自分のなかでは、この事件は落着する。

父親は腕のいい和菓子職人で、父娘の仲も良好だったという情報が出始めてきているが、どんな殺人事件であれ、とりあえず戦時下にはないはずの列島で日々生産され続ける多量の殺人事件のうちのひとつに過ぎず、腕のいい和菓子職人であった父が関係良好であったらしい娘を殺したからといって、あまりに忙しい日々を送っている私という個から見れば、とてもではないが、そんな事象にかまけてはいられない些事情報に過ぎないどころか、見ようによっては雑音や妨害情報の類いでさえある。戦時下にない社会での殺人事件は個と個の間で発生するいざこざや紛争の結果であり、そこにどんなドラマが生まれ、どれほどの社会問題の束が練り込まれていようとも、まったく別のいざこざや紛争を背負わされて瞬間瞬間を生きのびている他の個からすれば、とにかくも、当面、それにかまけている暇などない。新聞、テレビ、ラジオ、ネット報道、さらには小説や演劇などの社会派フィクション捏造によって飯を食う連中がハイエナのようにたかって事件を際立たせて何事かのように料理していくだろうが、それはそれで、彼らの身過ぎ世過ぎの問題をまるで全国民や全人類に共通の問題であるかのような詐術を仕掛けてきているだけのことで、とりあえずそうした業種や生業に直接的に関わっていない個にとっては、ちょっとした気晴らしに自分とまったく関わりのない情報に接してみる時のためだけの小ネタ以上のものではあり得ようもない。昔からの子ども騙し。

とはいえ、東尾久の和菓子職人が、なぜ、岩槻の河川敷の木で? 

これには、ひさしぶりに興味を掻き立てられる。掻き立てられるといったところで、それはもちろん格別の興味などではなく、来週以降に週刊誌が賑々しく載せるであろう特集記事をわざわざコンビニで立ち読みするほど私という個を動かしもしないのは確実であるし、世の中で起こる事件の無限の連鎖のいちいちを数十秒単位で飽き捨てていくだけの手練れの現代人であり都会人である私は断じて週刊誌など買いもしないであろうし、テレビの三面記事ネタのワイドショーをわざわざ「お茶の間」なる昭和的空間で見てみようとさえしないだろう。

ただ、それでも、東尾久の和菓子職人が、岩槻の河川敷の木で……ということには、ふいに絡め手から攻め込まれたような、気息奄々たる状態であった老いたる野次馬根性への巧妙な再火付けの手口が秘められているかのようではないか。なぜ、岩槻か。なぜ、越谷ではないのか。なぜ、桶川ではないのか。なぜ、北本ではないのか。なぜ北戸田でなく、本庄でなく、深谷でなかったのか。あえて岩槻であったということには、この和菓子職人の深みのある個人史の存在が、まるで、押し潰されて和菓子の腹からはみ出してしまった餡子さながらに、露わになってきているかのようではないか…… 




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