2019年7月29日月曜日

あるの


  
洗面台の鏡がちょっと汚れたからといって
みだりに濡れ布で拭いたりしてはいけないのはわかっているのに
きっとなにかで生の感覚が悪く酔ってしまってでもいたからだろう

選びに選んだものでもない手近にあった布を
こともあろうに洗面所の蛇口から出る水道水に濡らして
手付きだけは注意深くそれなりにやさしく拭いてしまったものだか

無数の繊維が鏡面上で細かく崩れて付着してしまい
鏡面がふたたび乾いた頃には微細な短い糸くずがいっぱいで
蜘蛛がひとしきりオブジェ創造に賭けて失敗した後のようだった

濡れ拭きした後の鏡面がふたたび乾くまでの数時間に
私はパルミラの遺跡の中で娘と絶縁を強いられる椿事を経験し
それというのも孫娘との秘愛のゆえで娘には痛手だったからだが

ホテルにひとりで戻ってくると鏡面はすっかり乾いていて
その表面の細かなたくさんの糸くずの付着の様が
いつの間にか不要になっていた実の娘という

大事ではあったようでも実は私の変貌を妨げる最大の障害となったものの
深い部分での有り様を予想もしなかったかたちで
ありありと見せつけてくれているようだった

そう考えれば手近な布を濡らしてあまりに不用意に洗面台の
鏡を拭いてしまったのもむしろ僥倖の類いだったかのようだが
それでもそれ以来は二度と鏡を濡れ布で拭かないよう

なにか決定的な過誤を犯した人のように心がけるようになったのだった
だがどうしたことだろう、濡れ布でなど拭いていないのに
今朝洗面台の鏡に向かうとあの時のパルミラのホテルでのように

いっぱいの微細な折れ釘のような糸くずが鏡面のあちこちに付着していて
数年前に移り住んだリスボンの近くの此処エストリルの海浜の家で
ふたたび私は変貌を遂げることになろうと宣告されたかのようではないか

孫娘が産んだ私の曾孫娘パメラが十代の細身の男の子を連れてきた
一目で恋に落ちてしまった私は男の身体を捨てて女体に一旦はなったが
彼が稀代の軟体動物好きだとわかったことから

烏賊の白い肌をした美しい細身の蛸に
現代の最高の整形外科医ジョナサン・フールキッツァ博士の手を煩わして
人類史上でも画期的な実験たる全身整形を受け入れて成功し

エストリルからはイギリスやアメリカへもひと泳ぎで行ける楽しみを得て
もちろん地上にいる時にはルキシル(かつての例の男の子だが)と
日がな一日とろりとろりと絡みあう時間を過ごしてきたものだった

巨大な白い肌の蛸が細身の人間の青年と絡みあっているイメージを誤って
抱かれてはいけないのですぐに付け加えておけば
ルキシルもジョナサン・フールキッツァ博士の天国的な手腕によって

全身ほのかな美しいピンクの肌の烏賊に整形されている
ルキシルの最新鋭の戦闘機のような肢体は世界の話題の的でもあるようで
ファッションそのものでもないというのに『ヴォーグ』『エスカイヤ』や

名は忘れたが他のファッション誌でも紹介されたので
ご存じの方もきっといらっしゃるに違いない
そんなことを誇らしげに開陳しようとする私ではないのだが

あのルキシルの肌を隈々までよく知っているのは私だけ
私だけなのよ
とちょっと女言葉で言っておきたいような気は

あるの



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