年末十二月三十日
ずいぶんな雨降りだが
用事で出なければならないので
雨をついて夕方出かけた
すぐにも靴の中まで濡れたが
寒すぎないものだから
これも悪くはない夜
信号のあかりが道路に滲み
空はぼんやり白み
雨の夕やみも楽しい
こんな雨の夕やみを
いつかの年末
歩いたことはあったかとか
近ごろさまよったことはあったかとか
思いはさまざまな系に流れて
勝手にすみやかに隅々まで
わかれて記憶の検索をしていく
生きてきたということの
脳と意識のつながりの現実が
こんな自動的な動き
脳や意識はこんな検索をして
どうしようというのか
過去と結ばなければ
この今は意味を持たないから
とにかく全速で検索し
過去と今との結びつけを
行わなければというわけか
人間の脳はじつは
見聞きしたすべてを覚えているといい
たとえば新聞をめくっていくだけで
全情報を完全に記憶していくのだとか
覚えていないと平気で人は言うが
本当は思い出せないだけらしい
ならば毎瞬これまでのすべての過去が
脳と意識のいちいちの検索で蠢いているはず
思い出しきれないほど大きく深い
過去の深い深い森を
あるいは無限の海をかかえて
(そう、まるでタルコフスキーの
『惑星ソレルス』のように
過去の家の記憶が海に浮いている…)
ひとりひとりが日々の
瞬間瞬間の廊下を進み玄関に到り
ドアノブに手をかけてまわしドアを開け
鍵をかけて傘を開き降りそそぐ
今宵の雨のなかへ踏み出していく
たった今の踏み出しとともに
これまでの全踏み出しが幾重も重なって
いっしょに(あるいは)ズレを伴って
この(そして)一般の雨のなかへと
からだを運んでいこうとする
起こっていることはなにか
眩暈させられるほどの
この豊饒な歩み出しはなにか
…「意識は、知覚作用について、この知覚作用の結果と真とは、知覚作用自らが解体することであり、言いかえれば、真から自己自身に反照する〔帰る〕ことであるという経験をしたのである。そこで、意識が知覚するとは本質的にはどういうことであるかということが、つまり、知覚とは単一にただ把捉することではなく、自ら把促しながら、同時に、真なるものの外に出て自己に帰ってくる〔反照する〕ことである、ということが、意識にとりはっきりしたのである」*…
ああ、ヘーゲル…
彼のこんな思考がどれほど
具体的な手ざわりを持っていたか
しばらく放っておいた道具のように
降り来る一粒一粒の雨のなかへ
進める靴先にぱしぱしと蘇り
考えよ考え方を変えながら戻りながら
飛びながら絶ちながら立ち止まり
がさっと纏めたり解いたりを
さんざんくり返しながら…
と、頭というよりむしろ腰から脚が
生き生きと鼓舞されて
また進み出ていくのだ自らの意志にもよらず
こまかなことは気にするでない
生きよ経験してこい大気と水と雑踏と
寂しさと侘しさと感情のたえざる乱れのなかを
闇とひかりとたくさんの物の手ざわりのなかを
と強引に《いま》《ここ》に意識を置いた
はかりしれない強大な(それでも)計らいが
これらの雨となって夕やみとなって
傘や靴先やコートや手の甲の濡れのすべてを
ことばとして表示として示唆として
いやどれでもない押す手として力として
伝えてくる
伝えてくる
なにもかも《わたし》を内側から
超え
超え
しかるべきことが
しかるべき向きへ
しかるべきかたちをいちいち取りつつ
進んでいく
と言えばすでに誤ってしまう
あらゆる動きを収めた千手観音のような動(と)静とが
仮面のように仮面として《わたし》をかぶって
行け在れ行け生きよ行け行け行けと
続いている
続いていく
*G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』「第一部 意識の経験の学 A. 意識 二. 知覚 ものとまどわし」より。樫山鉄四郎訳、平凡社ライブラリー、p.147。