2012年12月7日金曜日

花嫁 [本歌取り]

[北山修作詞 / 端田宜彦・坂庭省吾作曲 / 青木望編曲 / はしだのりひことクライマックス『花嫁』よりの翻案]

参考動画・音楽




なにもかも捨ててきた
と思うことの
こっけいさ
賭けたり
燃えたり
という修辞に馴染んだ
いのちという語
それこそ捨てて
走るべきなのよね
花嫁
なんて
ばかみたい
野菊の花束と
あのひとの写真なんて持って
夜明けの町へ
夜汽車で走るのに
酔ってたあたし
ばかみたい
あのひとも捨てよう
酔ってたこころも捨てて
故郷も親も理性も計画も安定も
捨てたんだもの
ついでよね、この際
捨てちゃおう
あたしも捨てちゃおう
いのちも捨てちゃおう
汽車が速くなったわ
ドアどっちかしら
あたまから飛ぶんだ
気持ちいいだろうな、この音
がきっ、と砕けて
捨てるんだ、そのとき
せかいぜんぶ
うちゅうだってぜんぶ




◆子供の頃の流行り歌の中でも、『花嫁』は印象深い歌のひとつだった。
「♪花嫁は夜汽車に乗って嫁いでいくの…」と始まる劇的な歌詞は聞きやすく、子供にもわかりやすく、曲もピッタリで、「♪命賭けて燃えた恋が結ばれる」瞬間に向かって夜汽車で急ぐ花嫁が“かっこよかった”。「♪帰れない、なにがあっても。心に誓うの」なんて、なかなか思う機会はないだろうな、と子供心にも思ったものだが、自分でも、嫁いでいくわけではなくても、「♪帰れない、なにがあっても。心に誓うの」なんて言う機会がないものかな、と家と学校と遊びのくりかえしの日常の中できょろきょろ探してみたものだった。
いまでもいろいろな部分を思い出して、心の中で曲を追ってみたりするし、たまに懐メロ気分になると掛けてもみる。ただ、全曲を最初から聴いてみると、『花嫁』はたしかにまだいいほうだとはいえ、この時代の若者たちのものは悠長すぎて、思わせぶり過ぎて、そのままでは聴いていられない。ほんの数分の曲なのに、もったらもったらし過ぎていて、早回ししてサビの部分だけを聞いていたりする。悠長な流れを楽しんで聴いていられるのは、(もうちょっと時代は古いものの)、媚態たっぷりの園まりの『逢いたくて逢いたくて』ぐらいのものだ。
もちろん、時代だけでこの「もったらもったら」感は語れるものではなくて、いつの時期のものであれ、さだまさしの「もったらもったら」ぶりは我慢できない。たいしたこともない感傷性を生むのにあんなに悠長にひっぱられても困る、といつも思う。さだまさしが、さだまさし的なるものが、悪いけれど、本当に、本当に嫌いなのである。歌が始まる前から、もう飽きてしまう。
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・シュヌアー演奏のベートーベンのピアノソナタ第28番の第2楽章や、第29番の第1楽章のような瞬発力のない曲は、正直なところ昔から堪え難かった。もちろん、バッハの『イタリア協奏曲』の、これはやっぱりグールド演奏のあの第3楽章の爆発的な生の輝きのさまでもいいし、もっと優しげながらもメンデルスゾーンの第4交響曲《イタリア》の第1楽章のいきなり頂点!感のようなのでもよい(『イタリア』は、アンドレ・プレヴィンのものもよいかもしれないが、フランス・ブリュッヘン指揮の18世紀オーケストラの古楽器演奏のものがいい音を出している)。
あえて「もったらもったら」感で勝負しようというのなら、ワーグナーで来てくれ、とやはり思う。これでもかというほどの長いながい演奏のクナッパーツブッシュによる『リエンツィ』序曲など、恍惚と打ち震えんばかりの「もったらもったら」感である。


参考動画・音楽(文中の演奏者のものは見つからないことが多いが、グールドとクナッパーツブッシュは見つかった)

園まり「逢いたくて逢いたくて」
ベートーベン ピアノソナタ28番第2楽章
ベートーベン ピアノソナタ29番第1楽章
バッハ イタリア交響曲 第3楽章 グレン・グールド演奏風景
バッハ イタリア交響曲 第3楽章
メンデルスゾーン 交響曲第4番《イタリア》 ジョージ・セル演奏
ワーグナー 「リエンツィ」序曲 クナッパーツブッシュ演奏
ワーグナー 「リエンツィ」序曲 レヴァイン演奏


◆この翻案は、1995年に書いたもので、当時ひとりで作っていた雑誌『Nouveau Frisson』42号に掲載した。オウム事件後の、裂け目があっけらかんとできたような日本であり、東京。そんな中で、古い歌謡曲の翻案になぜか夢中になっていた。捨てても捨てても、逃げても逃げても、後から後からこびりついてくるような交友や遊びが多過ぎ、忙し過ぎ、今から思えば個人的に人生の頂点のひとつにいた時期だった。
 翻案はあの頃の心境の中でやはりなされていて、「なにもかも捨ててきた/と思うことの/こっけいさ/賭けたり/燃えたり/という修辞に馴染んだいのちという語/それこそ捨てて/走るべきなのよね」などと書いたり、「酔ってたあたし/ばかみたい」などと書いていながらも、今から見れば、ずいぶん「酔ってた」時期だった。だいたい、精神的な事柄について、捨てるべし、とか、酔うのはだめだ、とかいう方向でものを考えたり書いたりするというのは、つまりは若いということである。捨てようが、持ち続けようが、酔おうが覚めようが、そんなことはどうでもよい、そういうことが、若いとわからない。生のフォーカスを向けるべきところを絶えず間違う。
 …で、今はわかるようになりました、などと言ってしまうほど、私は人はよくない。だいたい、それなりに辛苦も退屈も延々と経ながらわかったことを、簡単に無料で書いてなどやるものか。人にはいつも嘘を言っておけばいいのだし、真実を言おうにも私自身の頭も心も舌もまちまちの勝手な方向に動くだけで、言えたためしがない。だからこそ、嘘でもいいから真実を捏造したいもの、とも思う。とりあえず、いくらかは若くなくなる…というのは、こういうことでは、ある。



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