J・W・アンダーソン『天使の奇跡』
寒波があすには抜けて少しは寒さが和らぐだろうという夜
しかし寒い寒い夜のメトロの通路わきに
なにも荷物を持たずに屈んで蹲っている初老の
あきらかにホームレスと見える女
グレーのジャンバーにグレーのズボンを穿いて膝を抱いて
頭を膝のあいだに埋めて通行人にはつむじを向けている
ばさばさの髪は黒いが額のほうは白髪になり出して
冬のように寒い人生の季節に入っているのかと思わせる
寝ているのか疲れているのか空腹なのか恥ずかしいのか寂しいのか
オブジェのように屈んで蹲っている
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちは現代社会を生きるために
こういう人々が目に入るやただちに見捨てるように訓練され
訓練の甲斐あって無言で一瞬に見捨てて通過する
見捨てて見捨てて見捨てて
そうして行き着く先には
ひとつの白い骨壺があるばかりだが
そこに到るまでにはそう大きくない焼却窯があったり
値段で等級の異なる棺があったり
リノリウムの鈍い光の流れる霊安室があったり
自動で上半身を上下できる電動ベッドがあったり
さまざまな精密検査の部屋があったりする
それらの場所に行き着くまでには
またまたいろいろと場所や部屋や山川草木があったりする
なにも荷物を持たずに屈んで蹲っている初老の女よ
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちは現代社会を生きるために
あなたを見捨てて道を急ぐ
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちのみごとな見捨て方を
もし顔を上げるなら見よ
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちの見捨てぶりの速さスマートさを
あきらかにホームレスと見える女よ
グレーのジャンバーにグレーのズボンを穿いて膝を抱いて
頭を膝のあいだに埋めて通行人にはつむじを向け
ばさばさの髪は黒いが額のほうは白髪になり出して
冬のように寒い人生の季節に入っているのか
寝ているのか疲れているのか空腹なのか恥ずかしいのか寂しいのか
オブジェのように屈んで蹲っている女よ
世界が人の世が人生が生が心が魂が
そんな美名で呼ばれるもののすべてが
あなたにどのような見捨てぶりを向けるかを見よ
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちの正体を
あなたの位置から立場からしかと見よ
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちがいかにすべてを
政治のせいにし国のせいにし時代のせいにし不況のせいにし
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちが日々刻々
いかに世界を人の世を人生を生を心を魂をみずからの言動によって
暗い暗い寒い侘しいものにして行っているか見よ
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちはさらに多くの人間たちを
それが自分でないというそれだけのことで見捨てていくだろうが
この先も続いていく見捨てと無視の数千年数万年を
想像せよオブジェのように屈んで蹲っている女よ
そうしてこんなところこんな世界こんな地上が
どう生きようがなにを経験しようが本当に意義のあるところかどうか
量り直せオブジェのように屈んで蹲っている女よ
この年のこの冬のこの寒さのなかでメトロの通路わきに坐り込んで
ひとりだけ寒さそのものの一般性のほうへと抜けていった女よ
忙しい影の連鎖として通り過ぎ続けていく
わたくしたちぼくたちあたしたちわたしたちのこれほどの薄さと
移りゆきのあまりの速さ凄まじさはかなさを
せめてはしばらく聞きつづけて
そうして遠いところへと持ち去ってその音を音ならぬものに向けて
まるではじめての命のように
ほっ
と放ってみてくれ
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