2012年12月8日土曜日

悲しくてやりきれない [本歌取り]

 [サトウ・ハチロー作詞 / 加藤和彦作曲 / ありたあきら編曲 / ザ・フォーク・クルセダーズ『悲しくてやりきれない』(1968)の本歌取り]



かなしくて
かなしくて
とてもやりきれない
こころの
森ふかくの沼を
ふかくふかく
もぐって
もぐって
とうとう詩へむかったと
言い伝えておくれ
もつれた夢の
かなた行く
白い雲よ
空よ
かがやきよ





参考動画
加藤和彦+北山修+坂崎幸之助ヴァージョン2002
沖縄三線ヴァージョン 城南海+坂崎幸之助植村花菜ほか
オダギリジョー・ヴァージョン
奥田民生ヴァージョン
カラオケ風ヴァージョン
「あの素晴らしい愛をもう一度」 加藤和彦+北山修+坂崎幸之助ヴァージョン2002
「童神」城南海+古謝美佐子 佐原一哉




◆この本歌取りは、1995年に書いたもので、個人雑誌『Nouveau Frisson』42号に掲載した。

◆サトウ・ハチローは、たとえば、まどみちおなどのように、数少ない近代日本の完璧な詩人のひとりであり、彼の歌詞の翻案をするのは僭越もはなはだしい。本歌取りということなら許されるだろう。
 完璧な詩人とはなにか。詩を文学によって暗めたり、汚していない人ということである。詩歌といえばすぐ「文学」を連想し、それと連動させるようにと、まだまだ多くの近現代日本人が洗脳されてしまっているが、詩ほど「文学」と正面切って対峙する言語配列もない。詩は逸脱、逃亡、流出、溶解、韜晦などのそぶりをつねに本質とする自由そのものの永久運動であり、固着や権威化の強硬な傾向を本質とする「文学」とはまったく相いれないものである。 
 この歌の彼の歌詞はすべてを伝え切っており、変更すべきこともないし、いじるべきところもない。そのため、あくまで原詩の不朽の存在感を前提として、そのあとに余韻のようにつぶやくような言葉を並べるのがふさわしい。本歌取りが、軽く、言い過ぎない短いものにされたのは、こういう事情があったからだ。

◆今になってみると、加藤和彦が2009年に62歳で自殺してしまっていることが、やはりいろいろと感慨を呼ぶ。鬱病だったというが、傍から見れば幸福と安楽の人生高原にいるかのようだった彼にして、自殺。
鬱病とはそういうものかとも思わされるが、しかし、ポップスに魂が飽いたのではないか、とも思う。いつまでも軽音楽に浸っているわけにはいかない、と強く動くものがなかったか。動くためには、とりあえずは、今の心身と生を脱ぐことから始めたらどうか、と決断したものがなかったか。… 自殺はつねに創造的なものだからである。自決とか、自裁とか、禊と言ってもいいだろう。自分から死に向かう行為は、生をないがしろにする行為でもなく、生を粗末にする行為でもない。生と死と自死の糸のからまりは微妙で、粗雑なヒューマニズムふうの無思考的思考では全く掬いきれない。

Youtubeには『悲しくてやりきれない』のいろいろなヴァージョンがあり、それぞれに面白い。聴きやすいものが欲しい時にはオダギリジョーのものもいいし、奥田民生のぶっきらぼうな独自性もいい。しかし、城南海が加わっての沖縄三線ヴァージョンは特にいい。沖縄の心情の流れにとても合うところのあった歌だと気づかされる。

◆『悲しくてやりきれない』をときどき思い出して感じるのは、(…この歌がそこまで到っているとは全く言えないものの、しかしながら、そこへの指差しにはなっていると思えるのは…)、日本の哀しみとさびしみは美しい、ということである。
われわれは、けっきょく、日本の哀しみとさびしみに帰って行けばよい。
たとえば深山の闇、そこに降る雪や雨に、人界の知も方位感覚も失っていくような底知れない滅びと孤独の感覚、その先の先にさらに無限に続いていくような哀しみとさびしみの中に、体も心も引きちぎれて、ほつれて、散っていくのが、われわれ皆の辿っていく避けられない行く末であり、これを救いと思えるようになるほかには、われわれの魂に救いのようなものはない。
 たぶん、この国においては、この哀しみとさびしみを心に蔵して喜びとすることをこそ、愛国という。他にはないように思う。



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