2013年1月25日金曜日

戦うという行為をついに選ばなかった人たちを



                                 100年後に誰がヴィレール氏や
             マルチニャック氏のことを語る
             でしょうか?
                スタンダール





安倍晋三首相(自民党総裁)は22日午前、
党本部で行われた役員会に出席し、アルジェ
リア人質事件について「企業戦士として世界
で戦っていた方々が命を落としたのは痛恨の
極みだ。テロは決して許されない。強く私た
ちは非難していかねばならない。すべての責
任はテロリストにある」と述べた。
[MSN産経ニュース 2013.1.22 11:29]



企業戦士…、ではないだろう
世界で戦って…、はいなかっただろう
遠い砂漠のなかへ
はるばる出かけていって
殺されたのは
技術者のオジサンたちや
営業のオジサン
大工さんたちだろう
戦士ではなかった
戦ってなどいなかった

そういう人たちが殺されたから
さびしさは特別
かなしさは格別

あの人たちのああいう仕事を
戦う…、などと呼べば
比喩の範囲をひろげて考えるにしても
やはり違ってしまう
大きく違っていってしまう
そういう
小さな表現の選び方から

詩文の人は
だいたいにおいては寛容だが
この小さいところ
ここにだけは
こだわっていなければいけない
詩文を通して人間であるとは
そういうこと
未来を損ないかねないような
ふさわしくない表現には
やっぱり
それは違う
まったく違う
と言い続けること

政治の人も
そのはずではないか
政治は言葉
政治は言葉に実を充填すること
しかも
詩文の人より
比喩や寓意やフィクションの使用を
大きく限られていて…

殺すことを当然の手段のひとつとして
戦うという言葉はなりたつ
殺すことを当然の義務のひとつとして
戦士という存在は生まれる
殺すことなど
考えもしなかった人たちを
戦士と呼ぶなら
それははなはだしい侮辱
戦うという行為を
ついに選ばなかった人たちを
戦士と呼ぶなら
それは
魂の名誉に対する
棄損



1 件のコメント:

peco_signiture さんのコメント...

安倍晋三首相は敵が必要だった。
でっちあげでも、それが嘘でも。
「敵」は殺す。
そこまでもう一歩だ。
それはまず、言葉からはじまる。