2013年2月25日月曜日

たえず湧きあがる思いを掻きまわし続ける




     人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ。
            藤原新也『メメントモリ』


バスクリンは
子どもの頃からのあこがれ
風呂釜が傷むからと
うちでは買ってもらえなかったので
おばあちゃんの家に行くと
入浴がうれしかった
みどりのお湯に入るなんて
夢のようだった

はたちを過ぎてからは
入浴はほとんどしなくなり
シャワーだけですます
入浴なんて時間と水のムダ
そう思うほど忙しい日々
シャワーしか浴びない
外国人の彼女と暮らしたので
二十年ほどは湯船に浸からなかった
湯船はあったけれど
お湯を溜める方式のもので
沸かすという感じでもなかった
それでも冬の寒い日など
たまには入浴したかもしれない
年に二度か三度
それ以上は飽きてしまって

ながい年月が急流のように過ぎ
いろいろな家やマンションを転々
いま住む家には湯船もあれば
給湯設備もちゃんとあって
この人生ではじめて
風呂に入るのが容易になった
三十年かかったのだ、ここまで
たったの一度も
入浴の楽な家に住まなかった

もう冬も終わろうとしていて
バスクリンが安売りされていたので
違う香りのものをふたつ
そうするのが当然のように
買い物カゴに入れてレジにいったが
レジ係の女の子はもちろん
驚きもせずにバーコードをピッ
そうするのが当然のように

そうして使いはじめたが
やっぱりなんとなく楽しくて
湯船にながく今日も浸かっている
能書き通りほんとうに体にいいのか
わからないけれども
色のついたお湯に浸かっているのは
子どもの頃さながらに楽しい
体が冷えている時など
脚のおもてがむずむずと痒くなり
こんなふうに冷えが浮き上がって
追い出されていくのかと感じる

そんな痒みがなくなっていくまで
お湯の中に入り続けていると
あわあわという感じで
輪郭のはっきりしない思いに
あたまの中はぼんやりしてしまうが
湯気みたいな靄みたいなそんな中
たびたび浮ぶのは外国人の彼女
仕事と自分たちのやりたいことを
お互い邪魔しあわないように
近くにべつに住むようになったが
ガンにかかって数年前に逝った

最期の二年ほどは療養を助け
病院に彼女の家にと落ち着かぬ日々
あれこれいろいろなことを
してやったようには思うものの
沸かす設備はないながらも
彼女の家に見舞いや介護に行くたび
湯船にお湯を溜めてバスクリンを入れて
温まらせてから風呂を洗ってやって
毎度そうして帰るようにしたら
もっとよかったのにと思われ
なんでそうしなかったのだろう
なんで思いつかなかったのだろう
たしかに彼女はシャワーを好み
わたしがいる時にはテーブルに就いて
最期の貴重な時間のひと刻みずつを
話したり黙ったりしようとしていたけれど
ガンには体を温めるのがたいそう効くと
あんなにもわかっていたというのに
風呂をたてるという面倒をどうして
毎回やってやらなかったものだろう
みどりやオレンジのこんなお湯に
じゃぶじゃぶしながら温まって
風呂脇にでもわたしは腰を下ろし
そこでのんびり話でもしたり
なにか食べ物をつまんだりすれば
よっぽどよかったはずなのに

いまとなってはなにもかも
もうとりかえしがつかないこと
安手のドラマやお涙ちょうだいの
ドキュメンタリーみたいに
おおげさに考えてなどはおらず
大仰に悔やんでもいないけれど
たいしたことでもないような
たったそれだけのことが
あの時いろいろ考えていたのに
なぜだか思いつかなかったし
やってやれなかったなあと
人目につかない井戸の底に投げてみた
小石かなにかのように気にかかる

シャワーで十分だし
体も逆に疲れてしまうから
そんなこともちろん必要ないと
彼女が言っただろうことはわかるが
やってやればよかったのに
行くたびに風呂にお湯を溜めて
そうしてもっと
重病に凍えた心までを
温まらせてやればよかったのに
そう思いながら
そう思いながら

…なんて冷たい冷たい
凍えた心持ちのわたしだったろう
その凍えた心を
もっと融かさなければ
わたしとわたしでないものとの
境がほんとうに失せてしまうほどに
お湯の表面をざぶざぶ
ときどきかきまぜて
ざぶざぶ
いつまでも
いつまでも
たえず湧きあがる思いを
掻きまわし続ける



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