2013年12月20日金曜日

生のすべては本当にゲーム以上のものではなく…




少し混んだ夜の電車の中で長い座席の前に立った。座席は人で埋まっている。誰もがスマートフォンやタブレットに見入っていた。見下ろせる5人ほどのうち4人ほどはゲームをしているらしい。そのうち、あきらかにひどく疲れた顔をしているのが2人、ひとりはやや疲れ顔、もうひとりは生き生きした顔。

一日の終わりの疲労の中でさえ、タブレット画面が提供するゲームがこれだけ人を惹きつけるのかと思ううち、思いは急進して、人生のすべて、全局面がゲームに過ぎないのだと分かれば、人びとはみな、もっと元気なままで居続けるだろうに、と考えるに到った。

そう、生のすべては本当にゲーム以上のものではない。心身の多少の疲れなど気にせずに遊び抜けるべきだ。生に価値はなく、意味もなく、勝とうが負けようが結局本当に得るものなどない。生死はゲーム盤の上のフィクションでしかなく、もちろん永遠の生死などもオプションの味付けにすぎない。どのようなものであれ、心身まるごとのシチュエーションゲームでしかない。まるで現実であるかのように痛切に感じるように仕組まれたゲーム。フィクションの中のキャラクターを演じているにすぎないのに、それが自己ででもあるかのように信じ込んでしまう巧妙なしくみのゲーム。

そろそろ、ほんのもう少しでも多くの人びとに教える時が近づいているかもしれない。人びとが大事だと思うもののすべてがじつはどうでもよいものであり、単にゲーム効果を上げるためだけに価値や真実というスパイスをまぶしていただけだったと知らせるべき時。

いや、やはりそのことは、私たちだけで保持しておくべきだろうか。人類も地球も一時的に今だけ在ればよく、それらの存続も進化もどうでもよいのであれば。

それを私たちは知っているが、そのことさえ人びとには知らせないままで、この虚妄のゲームの沼の対流をこのままの動きに放っておけばよいか。   





                              
   

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