2017年5月22日月曜日

映像がぼんやり薄らいで消えていく時のように



八年ぶりに引越してみたが
今度の引越しは違った
ずいぶん
感慨深かった
引越しは生前の別れというものを
さまざまなものとの間でちょっと大がかりにやるものなので
いつも感慨深いところがあるが
歳を取ってきたということもあるだろうか

中村真一郎が『四季』でこんなことを書いている
「引越しが近くなると、
「今まで住んでいた家の部屋部屋が
「急に自分に疎遠に見えてくる*

次に住むところが決まってから
家具の配置のために寸法を測りに行ったり
新しい生活の概要を想像するために
まだなにもない新居にひとりで仕事の後の夜に赴いて
電気さえ来ていないものだから
スマートフォンのライトを点けて照らしながら
亡霊のように部屋から部屋へ
台所からヴェランダへ
というふうに歩きまわったり
ボーッと立ち止まったりしていた

小一時間そうして過ごしてから
旧居に戻って来て
夜の食事づくりを始めたりする
ふと旧居の部屋部屋を見まわし直してみると
映像がぼんやり薄らいで消えていく時のように
壁も襖もドアもソファーも
なにもかもが薄くなっていくのが感じられた
それがはっきり感じられた
中村真一郎は「疎遠に見えてくる」と書いているが
現実感がすっかり失せて
たゞたゞぼーっと霞んでいくのだった

それがあまりにはっきり感じられたので
今まで自分にとって現実だったこの“現実”も
一週間後の消滅を宿命づけられて
もう霧散していく動きを取り始めたのだなと思った
慣れ親しんできた光景がぼんやりしていくことが
あまりにはっきり鮮明に感じられることの不思議さや異様さに
物質界というもののはかなさや紙一重さのようなものを
いつにも増してつよく感じさせられた
津波で沿岸の光景も生活風景も一変してしまうようなものか
大きな変化は少し前から風景の中に染み込んで来ているものなのか

旧居に暮らしている間には
いろいろな大きな変化や死や消滅が周囲で起こり
生のこれまでの時期よりも物事の終焉を思わされたものだったが
とても好んでずいぶん慣れ親しんだ環境を急に離れることになったのは
じぶんにとっては比喩でなしにひとつの死の経験のようだった

ユキヤナギの白い花々が
まっ先に春を告げるさまが居間から見られた後
桜の木々に囲まれた旧居は
どこの名所にも負けぬほどの花見場所となり
すぐ裏の隅田川沿いには延々と満開の桜が堤に並んで
早朝も夕方も昼も時間があれば花見に歩きに出た
江戸から荷風を経て伝わってくる隅田川の風情に
こんなに近く接して生きられるのはちょっと贅沢な喜びだった
桜が過ぎれば居間からは初夏のみどりの輝きが見える時期に入り
秋には秋でそれらのみどりが紅葉し黄葉する
目の前に草原のある一階なので秋の虫たちが深更を歌い続ける
居間のテーブルに着いてお茶を飲んでいるだけで
四季のこんな草木の情景がいつも目に入ってくる家を離れるのは
未来にどんなよいことが待っていようとも
やはりひとつの死のようなものに感じられた
素朴なこんなよいみどりの風景を手放していかねばならないのは苦しく
よいものや好きなものを手放していくのはやはり死であって
(あゝこの経験も大いなる最期の死の時のための修行なのか
誰もが少しずつひとつずつ死んでいく経験をさせられるように
こんなに好きだったこの住まいをふいに離れねばならないというの
そんなことを表現をあれこれ替えて思ってみながら
薄くぼんやりした映像になってしまっている
壁や襖やドアやソファーや
部屋のなにもかもを見ながら
(不思議なことだ
なによりも堅固な存在物だということになっているこれら物質たち
(品物たちが本当にこんなに希薄になってしまっている…
と瞬きし直しては見直し見直し
(どうやら
(じぶんの魂とやらが
(もう先に次の時期へと飛び行ってしまっていて
(いまここにあるはずの物質たちの世界を
(切り落とした髪の毛や爪のように
(用を終えて剥がれ落ちた瘡蓋のように
(見向きもせずに後に残して行ってしまったのだな
物質の側にあるつねに遅れがちな肉体に縛りつけられている意識は
夜の食事づくりに気持ちを戻しながら
たましいに置き棄てられた寂しさにしんみり感じ入りながら
(とするとこういうことか
(同じわたし自身であるかのようでも
(いまここにいるわたしは捨てられていくのか
(ひとりもうたましいは逝ってしまっているのだし
(もうこちらを振り返ることもないようなのだし
そう思いながら
初夏のさわやかな一個の死となって
いつまでも旧居に残ろうと決意したかのようだった



*中村真一郎『四季』(新潮社、1975p.17



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