2019年3月31日日曜日

Otomowa turaine……


  
  ハァ、コリャコリャ……

人がなにか仕事を選んだのなら
どんな仕事でも
結局は道楽に過ぎない

選んだわけじゃぁない
とかなんとか
言いたいとしても
必死に逃げようともしなかったんだろ?
結局
朱に交われば赤くなる

やっぱ
道楽
さらに言やぁ
酔狂

エー奴さん どちらゆく
ハアー したこりや 旦那を迎えに
さても寒いのに 供揃
雪の降る夜も 風の夜も
さて 
お供は辛いね*

  ハァ、コリャコリャ……

おともはつらいね

オトモハツライネ

Otomoha turaine……

  ハァ、コリャコリャ……








ジャッポーン!


  
       敵は雲霞の勢なり。我は身一つなり。
       「保元物語」下巻 為朝最期


家に愚か者がいると
NHKの行楽ニュースから漂ってくるような
うわっ面だけのぺらぺらの
家庭の平穏も
後で思い出せば懐かしくならないでもないような
取り柄のないルーティーンも
つまらなさと表裏一体の静寂も
それでも
こんなのが幸せっていえば
幸せって
ことなのかな
という
どこかのチープなドラマになりそうな
平民的自己満足感も
すべて
ある一瞬に崩壊してしまう
ことが
ある

崩壊しなかった人は
よかったね

崩壊しなかった家は
よかったね

酒で変わってしまう人間は
外でも
おやおや……
かもしれないけれど
家では
ほんとうにひどいんだよ
もっとひどいんだよ

しかし
もう
憎悪に煮えたぎっているわけではない
人を切る
関わりを切る
意識の中で切る
心から切断する
観念と実体を分離する
ことを
何十年ものあいだに
習得したから

親子
夫婦
同僚
友人
同士
そんな
にっぽん人が甘えたがる関係的虚構の中に
スパイのように
異星人のように
ひったりと入り込んで
それらを支える関係の糸を
いつのまにか
ぜんぶ
断ち切ってしまっているすべを身につけて
そうして
親子
夫婦
同僚
友人
同士
これらに
まったく依存しない自己意識の核の核だけを
エネルギーの発生装置にするすべを
創造してきたから

ひとりの人が
このドブ板土俗の腐れ縁にっぽんで
どうすればほんとうに自由に
自分ひとりのたったひとりの意識を生き抜いていけるか
わかるまい
親子
夫婦
同僚
友人
同士
に恋々とつるんでいる連中には

風のような
霞のような
蛇のような
妖怪のような
間諜のような
ひとりとして誰にも見とがめられたことのない
見ぬかれたことのない
わたくしのわたくしのためのわたくしによる生きざまがあった

なにが
ヘーセーが終わるだ!
これから時代はいよいよ
泥沼どころか
糞溜のド壺に嵌っていく
生かさぬよう
殺さぬよう
されてきた民草は
生かさぬよう
度合いが
ちと
増えてきているのを体感して
それでも
抵抗のしかたまで刀狩りされてヘーワシュギし切ったものだから
もうぶら下げられ終わった屠殺場の鶏豚牛
後は首切られて血抜きをされて熱湯に
ジャッポーン!
Japon!

さあ
そんな中をも生きのびていこう
この下界はそう面白くもないが冒険につぐ冒険のアトラクション
意味も意義もなぁんにもねェ、ねェ
ただただ
おいら今回もなんとか生きのびれたかな
今回は終わりかな
そんな浅薄な内省が一瞬浮かんでは散っていくだけの
地方のわびしいシャッター商店街の
セルロイドの桜飾りみたいな
この世の
万人等しなみの
虚無
虚無
虚無

あんたも
ほんと
空しい価値観に駆られて
馬鹿な影よのゥ

そうして
そうして

なぁにも
残らぬ
なぁにも
残らぬ………



2019年3月29日金曜日

ブリジット・バルドーなんかのほうが

家で淹れた紅茶は
三十分もすれば
色が濁って泥水のようになってしまう

これが自然な酸化のせいだとすれば
いちど蓋をあけても
いつまでも色の変わらないペットボトルのお茶は
あれはなんだろう
と不安になる

まるで
いつまでも美しいままの
マリリン・モンローや
グレタ・ガルボの写真のようだと
いうことか

くらべれば
すっかり太った猫のような顔をして
社会批判してシャシャリ出てくる
ブリジット・バルドーなんかのほうが
やっぱり
ヘンな酸化防止剤なしと
いうことか



ただ目を瞑って坐る


花粉症がひどいので
二月三月は
生きていないのとかわらない

瞑想のかたちばかり
して
しのいでいる

脚を組んで
膝に腕を伸ばして
指で
チンムードラや
ギヤンムードラあたりを組むと
すーっと鼻水は止まり
困った症状は消える

これは二十代の
アシュラム時代のなごり
二十八歳まで
毎晩一時間はヨガと瞑想をし
そう厳しく制限はしなかったが
菜食主義を続けた
国際線でもヴェジタリアンを
最初から頼んでいくのが
常だった

なつかしい
若気のいたりの

二十八歳のある日
修行はやめた
大げさなようだが
イエスのことばを真に受け
したがったのだ
「それだから、あなたがたに言っておく。
「何を食べようか、何を飲もうかと、
「自分の命のことで思いわずらい、
「何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
「命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。*

瞑想も
とうのむかしに
やめた

さっき
うっかり
瞑想のかたちばかり
して
しのいでいる
と記したが
瞑想
ではない
瞑想のかたち
と記したところに
本当に大きな違いがある

どこでもいい
目を瞑って
坐り
脚をかるく組み
手のひらを
上向きにして膝に置く
ムードラは
組んでも
組まなくてもよい

ただ
それだけ

無念無想になろうなどと
思わなくていい
思ったらいけない
思ったら
もう
無念無想ではないし

ただ
目を瞑って
坐る

それだけ

だいたい
瞑想ということばが
違う意味なので
いけない
目を瞑って
あれこれ
世俗の算段を想うのが
瞑想

ただ
目を瞑って
坐る

花粉症の症状が消えるのは
たぶん
下ろした腰と腿の屈折
そこから
おのずと来る
背の無理のない伸び
さらに
ゆるくであれ
脚を組むことの効用だと思うが
それは
また
別のこと

インドのむかしのヨガ行者たちは
ひょっとして
花粉症の人が多くて
ある時
坐る姿勢に効用があると
だれか気づいたのではないか
と思ったりする

とはいえ
ちょっと長めに
こうして坐っていたりすると
こちら側の
いわゆる世の中の
価値だの意義だのは
見終えて来た映画程度のものに
たしかに
なってしまう

付言しておくと
花粉症の症状が消えるのは
坐って
脚を組んでいる時だけ

立ち上がって
こちら側の
いわゆる世の中の
活動に戻ると
たちまち
鼻水や
くしゃみが
また
襲ってくるので
あしからず



山という漢字を五つも



山のむこうにも
また山

山山山山山

山という漢字を五つも並べて書いたことがなかったので
ちょっと
驚く

山山山山山

自然界とは
これは
また
別世界

山山山山山

この山のむこうの
また
むこうの山の
世界には
ここを通っていくしかない

山山山山山



2019年3月26日火曜日

すこし早めに覚めてしまった朝がたの寝室の薄闇


 
夜ふかしして迎える闇よりも
すこし早めに覚めてしまった朝がたの寝室の薄闇のほうが
孤独とか孤絶とか
死とか
そんな言葉の奥の奥の意味に滲みているようで
居たたまれない

窓を開けて戸外の空気に網膜を晒せば
これから始まるものに気分は一瞬に染まり
寝室の薄闇を浸していた恐ろしいものたちを忘れ去るのだが
また明日もあさっても
朝がた
寝室の闇にあれらは滲みあがって
いまだに未知のまゝの
とほうもなく恐ろしいところへ
わたしも知らないわたしの内奥を連れ去っていこうと
いかにも静かに
すこし温みさえして
待ち続けるのだろうと思う





2019年3月25日月曜日

で 発音し始めてしまう 投入


あそこのスーパーマーケットのレジにも
路線バスの支払い箱みたいなものが置かれるようになり
貨幣や紙幣を
そこにべつべつに投入させられるかたちになった
店がお金を管理するには便利かもしれないが
貨幣と紙幣をべつべつに出して
背をかがめてそれらを投入口に入れさせられる客のほうは
じつは店の管理の前段階をさせられているわけで
ビミョーに損失を被らされていると思うのだが
やっぱりここでも現代日本人は唯唯諾諾
おかげで
慣れたレジ係が客ひとりひとりの財布扱いにあわせて
緩急わきまえてお釣りを手渡してくるのより
ビミョーに時間がかかるようになって
レジは以前よりも渋滞するようになっている

そういえば
お金の「投入」

さっき「投入させられる」とうっかり書いてしまったが
ふだんの生活の日本語では
投入
なんてあまり言わなかったなぁ
豆乳
なら言うんだけれど
投入
っていうのは生活語としては硬いから
入れる
で済ますわけだ
投入
なんて語彙としてもちろん知っていても
入れる
に転換して口に出すわけだ
家族のあいだで
投入
なんて言うかい?
「ほら、はやくお鍋に白菜を投入して!」
「入浴剤、どのくらい投入するの?」
なんて
言わないだろう?
投入
ってそういう単語なんだ

もちろんレジの支払い箱にも
入れる
って言ってぜんぜんかまわないんだけれども
投入
って説明に書いてあったり
店の人にもなにげに
投入
投入
投入
って言われたりすると
そっちのほうがワケ知りなような
通なような
現代的なような
知的なような
そういうもんなんだよ的なような
そういう言い方してかないと時代遅れなんだよ的なような
投入という単語もポンポン言えないなんてヘンじゃね?的なような

発音し始めてしまう
投入



2019年3月23日土曜日

非表現者とか反表現者とか

 
表現者
とすぐに名乗ろうとする人たちが
うわうわ
うわうわ
暖かい季節になってくると雲集する小虫のように現代には溢れて
うさんくさい
わずらわしい
きたならしい
幼稚っぽすぎる
脳たりんっぽい
あほらしすぎる

書いたり描いたり捏ねたり削ったり体を動かしたり
したいのなら
すればいい
いくらでも
へんな自己規定なんてしないで
たゞ
すればいい
いくらでも
したいのなら

表現
なんて言っている時点で
じつは
もう
終わってる
ってのが
わかんないのかな
自称表現者さんたちには?
表現者ワナビーさんたちには?

AをAに似せて表象しようとすることが表現で
そこには理屈上
真の創造は
はじめから無い
Aを表象しようとする必要はない
Aがすでにあるなら
そのAを熟視すればよい
文字というシミの羅列に置き換えようとする必要はない
絵の具という化学物質で模造イメージを作ろうとする必要はない
大理石を削ったり木を削ったりして3Dする必要はない

もちろん
創造
なぁんてやらないんだよ
その点チョーシニカルなんだよ
このシニカルさを見てよ
ってんなら
それはそれで姿勢がアートかも
でも
そういう人なら
表現
ってコトバも
たぶん
使わない

どうして
非表現者で~す!
って
言わないの?                                                                        
って
もっとカッコいいゼ

反表現者!
だって
概念にねじくれを引き起こして
ひねりが効いて
きゅっ
きゅっ
いい感じ

すっかり土俵を替えちゃう
変えちゃう
ってのが
アート
ないのぉ?
ないのぉ?

み~んな
小金ほしい
知られたい
見てほしい
忘れないでぇ
好かれたぁい
透けてみえて
カッコ悪いですよぉ
チョー
カッコ悪いですよぉ