2019年3月3日日曜日

文芸は書きてぞ卑し書かずして……

 
インターネット時代も
SNSの時代に入ってからは
連休中の混雑したSAの公衆便所で排便するようなぐあいにまで
安易な自己顕示の垂れ流しがあたり前の世の中になって
そんな中で古典的な自己顕示の王たる
詩歌!
演劇!
日曜画家系お絵描き!
陶芸趣味!
まさに趣味の最たるものたる園芸!
球技からマラソンに到る余暇時間ないし休日の運動系!
その他の小規模パフォーマンス!
等などが
垂れ流し度において
すなわち
排便量において
ウルトラどころかハイパーな物量を誇る
デジタル垂れ流し自己顕示連中に押されっぱなしに見える。

いったん尺度が電波上の物量に傾くようになると
質や個性はどうでもよくなるもので
勝負はやはり電波をどれだけ支配しているかの容量勝負になり
電波内排便量の嵩の多寡でしか存在力は図られ得なくなっていく。

自己顕示量や自己顕示欲量さえもが
計測可能領域で多寡を競うようになったのかと考えれば
なるほどまことに新時代に入ったものか……とも感慨ぶかく思えてくるが
古典的自己顕示王の玉座を狙おうという
時代錯誤のオールドファッションドさんたちの
まぁ
内心の御苦労たるや
推し量られ過ぎて痛々しいことこの上ない。

もっとも
詩歌はたんなる自己顕示の器でしかなく
そこに集う人びとは醜い自己顕示欲という劣情に悶えて
いわば貧者の便器たる詩歌のみをよすがとする他ない(もっと
金銭的に余裕があれば映画や演劇を手段とするか…)
などという観察は不肖わたくしの甚だし過ぎる偏見であって
詩歌はやはり
“たましい”!
“こころ”!
“まごころ”!
“あたたかみ”!
“人間性”!
“愛”!
“多様性”!
“深い洞察”!
“深い理解”!
等などを人類において支える聖なる(!)領域
なのであろうか?????
そんなシューキョーがかった理解を
やっぱり押しつけられるゾーンなのだろうか?????
ショーコー
ショーコー
ショコショコショーコー
アサハラショーコー*
な界なのであろうか?????

長々と書き過ぎるのが厳罰に処される場所であるからにして
このあたりで切ることにして
こんな時には便利この上ない岡井隆の歌を引いて
いったん
済ましておこう

以上簡潔に手ばやく叙し終りうすむらさきを祀る夕ぐれ

ついでに
安永蕗子の歌も引いて

  以後のことみな乱世にて侍ればと言ひつつつひに愉しき日暮れ

安永蕗子には
そういえば
こんな歌もあってね

文芸は書きてぞ卑し書かずして思ふ百語に揺れ立つ黄菅

もちろん
荻原裕幸みたいに
述語失って主語でしかないぼく!
主語!
主語でしかないから!
ぼく!
述語までしっかり述べ終えようとはもうしないから、ぼく!
っていうアプローチもある

  ぼくはいま、以下につらなる鮮明な述語なくしてたつ夜の虹

こうやって
現代短歌を並べてみると
じつはニッポン詩歌の称揚となっていくんだよね!
というところが
この書きものの眼目なのであるが

わっかるかなぁ**?

わっかんねぇだろうなぁ……







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