2019年3月3日日曜日

“表現”!

 
のんきなのか おバカなのか
いわゆる
天然なのか
わからないが
“表現”
などという語を
平然と使う人たちがいて

その平然さに
まるでヒトラーユーゲントのような“キリッと”感を
ちょっと小気味よく感じてしまったりもする

よほどのバカでもないかぎり
あるいは
よほど本を読まないか
よほど文科の情報に疎いかでもないかぎり
“表現”
どころか
“作品”
という言葉も容易には使えなかった
1980年代や90年代

あのポストモダンの怒涛はどこへ行ってしまったのだろう

たとえば
「ボードレールが『悪の華』を出版した」
などと発言するのさえ
憚られた(それは不正確な通俗歴史ふうの物語に過ぎず
文学テキストである『悪の華』の外部に位置し
それゆえに『悪の華』の読者には触れようもない風聞でしかない
ゆえに)
アプローチの厳密さを四方八方から要求された
あの
時代の
あの怒涛は
いったいどこへ

ああ
“表現”
“表現”
“表現”

この語の使用にあたっては
あらかじめの内実の存在が想定されていなければならず
つまりはイデア論に依拠していなければならず
“表現”される時点でのイデアの変更や改変は許されないはずで
もしそれがなされるならばたちどころに“表現”は崩壊し
べつの概念を準備する作業が開始されなければならない
“表現”はすなわち始源や創造ではありえず
すでにあらかじめ存在する源のRNAでしかなく
“表現”の語をみだりに用いるならば
そこに表象されるものが創造ではないことの暴露でしかなくなる…

こうした考察を怠った人たちによって
いつからか“表現者”なる自己規定が用いられはじめ
たとえばロラン・バルトや
ジェラール・ジュネットや
ジャン=ピエール・リシャールや
ソレルスらに共感する者たちからは
一気に古色蒼然たる印象批評の時代に退行してしまった人たち
のように見えたが
もはや
ロシアフォルマリズムも構造主義批評もポストモダン批評も
読まない
というより
読めない
読む根気もない
そんな人たちによって文芸的にあまりに怠惰な頭脳たちの
津波!
が押し寄せるばかりの
時代!
になってしまったのだった

彼らの
その平然さに
まるでヒトラーユーゲントのような“キリッと”感を
ちょっと小気味よく感じてしまったりもする
退行は退行であり
プルーストがサント=ブーブを批判した時からこちら
ボルヘスあたりまでの文芸史が一気に
なかったことに!
されたことになるのだろう
ユングが『ヴォータン』*で述べているような
熱狂と陶酔の太古の神
ふたたび目覚め
活動をはじめ
でもしたかのように

ナチズム!
文芸の!


*C.G.ユング『ヴォータン』in『現代と未来 ユングの文明論』(松代洋一編訳、平凡社ライブラリー)




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