L’invisivilité me semble être la condition de l’élégance. L’élégance cesse si on la remarque. La poésie étant l’élégance même ne saurait être visible. Alors, me direz-vous, à quoi sert-elle ? A rien. Qui la verra ? Personne.
Jeau Cocteau : De l’invisibilité dans Journal d’un inconnu (Grasset 1953)
ひさしぶりに
コクトーの「知られない者、知られていない者の日記」を開いたら
見られない、見えない、ということが、わたしには、 エレガンスの条件に思える。見られてしまえば、 エレガンスは止まる。エレガンスとしての詩も、 見られてしまうことには耐えられまい。こう言うと、 見られないということが、なんの役に立つのか? と聞かれるかもしれない。なににも。だれがそれを見るのか? だれも。
とあった
この惑星上での
わたしの滞在のしかたを決めた章句のひとつ
コクトーのこの本
グラッセ社の《赤いノート》叢書の一冊は
わたしの唯一の友のものだった
彼女は死んだ
1983年に彼女と古い日本家屋の二階に住むようになった時
ドタドタと足音を立てがちだった若いわたしは
歩き方や振る舞い方の根本的な改変を強いられた
いっさい足音を立てずに畳の上を歩くこと
ものを手にとったり動かしたりするのにも音を立てぬこと
いるかいないかわからないように室内でも戸外でも移動すること
おおげさに言えば
この惑星上に滞在するにあたって透明さと無とを身体とすること
で?
なにも。
敷衍しない
展開しない
通俗小説ではないのだから
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