雨がつよい。
激しい。
ざあざあ降りになっている。
思いつくまま、
こう、並べてみると、
つよい
激しい
では今の降り方を捉え損い過ぎていて、言い表し得た、とは
思えない、あまりに思えない
ざあざあ降りになっている
だと
こちらの感情もある程度巻き込んでくれるようで、
十分ではないまでも、もう少し、いくらかは、「言えている」感が
反射してくる
ざあざあ降り
だけで止めると、いけない
そうではなく、
ざあざあ降りになっている。
としたところでようやく「言えている」「言い表し得た」と
感じはじめてくる
「になっている。」が要るのだ
「なっている」が必要だったのか
「。」が必要だったのか
「に」も必要だったのか
今の
この時間、此処で、わたしの肉体の現前での、この降り方。
つよい雨に降られた
降り込められた
足下などびしょびしょに濡れてしまって
そんな降られ方は無数に経験したようなのに、 思い出の中からサッと
閃いて蘇ってくるのは、
晩秋、ざあざあ降りの日に訪うた室生寺から、 近くの室生龍穴神社まで
ざあざあ降りどころか、傘も役立たぬざんざん降りの、
ザンザン降りの中を歩き、お堂の軒下でたったひとり、濡れるのを
しばらく避けていたことや、
王子神谷に住んでいた頃、豪雨の中、 出かける妻に駅までは長靴を履かせて
いっしょに歩いて行って、駅でそれをヒールに履き替えさせて、 見送り、
長靴は家まで持ち帰ってきたことや、
大西洋から流れ込んだ雲塊をもろに受けてふいの豪雨となったパリ で
石畳の道がどこも急流の川のようになったのを避けて、カフェが
ちょうど近くになかったので、もっと値の張るレストランに、
しかたなしに逃げ込んだことなど、ごく幾つかばかり。
ざあざあ降りになっている。
「なっている」が必要だったのか
「。」が必要だったのか
「に」も必要だったのか
0 件のコメント:
コメントを投稿